November 30, 2016

⚫️華麗なショスタコ12番 井上/N響 2016.11.30

少し旧聞になりましたが、N響定期としては大変珍しい、ショスタコーヴィチだけで組まれた演奏会の感想を少し。指揮はショスタコーヴィチの演奏で近年名を挙げた井上道義。定期への登場は37年ぶりとのこと。

人気のある曲を集めたというわけではなさそうで、むしろ知られていない作品や問題作を集めた感じです。

1曲目は「ロシアとキルギスの民謡による序曲」。聞いたことのない曲です。何かの機会音楽らしく、聴きやすくて大音量で、聴衆の受けは良さそうです。もっとも私はショスタコーヴィチというと何らかのアイロニーが入っているはずと身構えてしまうので 、楽しめず。ボロディンなら楽しめるのだけれど。

2曲めはピアノ協奏曲第1番。ソロはアレクセイ・ヴォロディン。トランペットソロはN響の菊本氏。通に好まれる曲です。ヴォロディンと菊本の掛け合いが見事で、緊張感あふれる演奏が素晴らしい。 音量もほどよく、この日もっとも美しかった演奏でした。

メインは交響曲第12番「1917年」。レーニン讃歌とも反レーニンとも言われる、評価の分かれる曲ですが、めったに聞くことがないので、良い機会とばかりにじっくりと聞かせていただきました。

例のレーニン讃歌と言われる堂々たるテーマが全曲を貫いており、いささかも弛緩することはありません。弛緩することが無いというのは良い意味ばかりではありません。5番から10番までの交響曲に共通に表れる悲壮感やペシミズムはほとんど出てこない、そんな意味での弛緩することが無いということです。

この曲は大音量です。オーケストレーションの素晴らしさもあります。各楽章に表題もあり分かりやすく、何より肯定的なテーマが常に鳴り響いているので、誤解をおそれずに言えば「楽しい曲」です。でもショスタコーヴィチを聞くのに、楽しさは必要なのでしょうか。ベートーヴェンだって然り。「三重協奏曲」という楽しい曲がありますが、誰も聴きたがらないし演奏したがらないです。やはり名作曲家に求めたいのは人生の苦難を克服する力強さと表裏一体の哀しみみたいなものです。残念ながら私には交響曲第12番の中にそれは感じ取れませんでした。

かといって、このような曲を否定するものではありません。オーケストレーションの華麗さだけでも、特に若い人に向いた音楽だと思います。

堂々としたテーマが、井上の手になると、ますます堂々として聞こえます。N響も好調。黒々としたソ連風の響になりました。指揮者に順応する能力は本当に素晴らしいと思います。

私としては、このコンビに7番や9番といった曲を演奏してもらいたい気がします。あと15番も。アイロニーのある曲をどのように料理するのでしょうか。この日の曲は「どうだ、こんな曲だってあるんだぞ」的なやや意地っ張りな紹介に終わった気がしますので。井上/N響/ショスタコーヴィチの真価を問うのは別の機会にしましょう。

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October 23, 2016

⚫️とんでもない名演たちでした ヴェデルニコフ/N響 2016.10.23.

ヴェデルニコフという指揮者はボリショイ劇場の監督とのことで、おそらく現在のロシアでは確固たる地位を築いているのでしょう。しかし私にはどうもピンと来ない指揮者でした。

新録音のCDを好んで聞かないので、ヴェデルニコフがどんなCDを出しているのか知りません。私にとっては2年ほど前にN響の定期演奏会を指揮した時の印象でしか無いのですが、その時は確か「眠りの森の美女」の抜粋という、言ってみれば彼の現職の特徴を最も表しているプログラムのはずで、しかし私が感心しなかったのは、3大バレエの中でも最も地味な曲をさらに地味に演奏してみせたので、職人なのだろうけれど大向こうを相手にたんかが切れるような指揮者では無いのだ、と少し物足りなく思った次第です。

さて、今年も定期に呼ばれているとのことで、内心はまったく期待していませんでした。今回のプログラムはA定期が春の祭典ほか、C定期が悲愴ほかという意欲的なものですが、たぶん微温的な演奏で終わるのだろうなあとしか考えていませんでした。

結果はまったく違うものでした。どの演奏もおそるべき名演となりました。

すべてを述べるのは難しいので、大曲3つ、すなわち春の祭典、ドヴォルザークのチェロ協奏曲、悲愴について述べてみます。

春の祭典は私自身は好きでない曲です。春の祭典の魅力の1つはリズムにあると思いますが、私の好きなのは点でない線の音楽ですので、春の祭典は対局にあるといえましょう。したがって私の好きな演奏はカラヤンの新しい方、徹底的にレガートで仕上げた演奏です。他には常識的なショルティの旧盤でしょうか。

冒頭のファゴットの鳴らせ方からして、おおっと感心します。決して大きくはないのですが、たっぷりと長く鳴らすのが新鮮で、その後の演奏を期待させます。様々な楽器が登場し音が大きくなるにつれて私は「これは・・・」と思い始めました。どこをとっても堅牢で綻びが無いのです。いわば完璧な音楽なのです。

やや遅めのテンポ、揺るぎない運び、決して騒がない大人の鳴らし方、それでいて決めるべきところはバチーンと決めてホールを揺るがす。私は稀に見る名演だと感じました。ヨーロッパの超一流のオケを聞いているかのようです。何よりヴェデルニコフが決して慌てない、まさに王者の風格なのをかんじました。N響からこれだけの響を引き出せるなんて、まさに神業のようです。

後日、団員の談話として「練習であんなに絞られたのは久しぶり」とあったそうですが、私は本当だろうと思います。それぐらいに素晴らしい響、素晴らしい音楽でした。私はヴェデルニコフに対するイメージを一新しました。

日を変えてC定期。クニャーゼフをソリストに迎えてのドヴォルザークのチェロ協奏曲です。苦難の多い生涯を送るクニャーゼフらしい、粘りに粘った音楽は聞き応えがあります。実演でこれに匹敵するのはそれこそデュプレとチェリビダッケの演奏ぐらいでしょう。それぐらいすさまじいドヴォルザークです。

だいたいドヴォルザークのチェロ協奏曲は、CDで聞くのとは違って音量のバランスが取れない音楽です。昔、高名なチェリストが弾く時に、指揮者は(この人も高名な人でしたが)音量のバランスをとるためにオケを縮小してVn1を3プルトぐらいにしていました。それでも聞き取りにくかったのを覚えています。

クニャーゼフは・・・そんな心配はありません。バックのN響はシンフォニーをやる時と大して変わらない7プルトです。それでもクニャーゼフは朗々と聞こえてきます。どれだけ大きな音なのかと疑ってしまうほどに。

そしてクニャーゼフに合わせるヴェデルニコフの音楽づくりの素晴らしいこと。遅めのクニャーゼフに合わせるだけでなく、さらに各フレーズ終止の和声をたっぷりと余韻を残して、NHKホール全体にドヴォルザーク独特の和音がわおんわおんと幽かに響くときの美しさ! こんな幽玄で活力溢れるしかも粘りに粘ったドヴォルザークは初めてです。各楽章、涙が出るほど美しい演奏でした。二人に感謝です。

ここまでくれば、もうヴェデルにコフがよくわからない指揮者などと言ってはいられません。名指揮者です。めったに出会うことのない名指揮者です。

チャイコフスキーの悲愴は、もうお分かりのように、久々に背中がぞくぞくとするような名演でした。オケの横のラインをたっぷり鳴らしながらも、決して濁らない凄さ。ものすごい練習だというのも納得できます。先日までパーヴォと一緒にマーラーを華やかに鳴らしていたとは思えない、黒光りのする羊羹のような響き。私はこんな響は久し振りで、どこかで聞いたようなと考えて思い出しました。

東の響きです。まだベルリンの壁が崩れる前、共産主義の元で第二次大戦時とほとんど同じ響きを残していた、ベルリン交響楽団とかシュターツカペレ・ドレスデンがかつて持っていた響きです。それはアメリカが率先した機能的な響き(日本も影響を受けました)とはまったく異なる次元の、恐ろしいまでの緊張を孕んだ響きです。それがN響から聞こえてくるのです。

いやはや、恐れ入りました。わずかな練習でここまで徹底的に暗いスラヴの響のオケに変えるとは、ヴェデルニコフは只者ではないです。もちろんそれに応えることのできるN響の高い技術力にも脱帽なのですが、私には今までノーマークだったヴェデルニコフの素晴らしさに圧倒されっぱなしの悲愴でした。終楽章の慟哭の凄まじさは全身の毛が逆立つほどで、久々に打ちのめされて客席でぐったりしてしまうような凄さでした。

結論 次に招聘されるのが最も楽しみな指揮者となりました。私はパーヴォを常々褒め称えていますが、パーヴォには無い、地の底から魂が這い上がってくるような重さと深さを持った指揮者、それがヴェデルニコフだと感じます。N響も練習がきついなどと嫌がらず、この指揮者も大事にしてほしいものです。21世紀になって初めて凄い指揮者に出会った感じです。

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October 08, 2016

⚫️夜の表現の彫り深いマラ3の名演 パーヴォ/N響 2016.10.08.

N響90周年企画、サントリーホールのオープニングから30周年企画と合わせて、サントリーホールで一夜だけの演奏会として、マーラーの交響曲第3番がパーヴォ・ヤルヴィ指揮で行われました。女声合唱は東京音楽大学、児童合唱はNHK放送児童合唱団、アルト独唱はデ・ヤングです。

これまでこのコンビのいくつかの名演を聞いてきた私としては、演奏前にもおおよその演奏の輪郭を描いてみることができます。おそらくテンポは速いであろうこと、ここぞという場所でアゴーギクを聞かせるが、すぐに元に戻る、つまり円弧を描くような演奏をするだろうこと、部分的に非常に彫りの深い表情をつけるだろうこと、などです。

N響をサントリーホールで聞けるのは久しぶりです。NHKホールで聞くのも悪くないと思っていますが、サントリーホールで聞くN響はまた格別です。音の余韻が嫋嫋と広がり残るのを楽しむのは最高の幸せです。

さて曲の冒頭、ホルンの壮大な斉奏ですが、予想通りパーヴォはあっさりと早めに始めました。ぐいぐいと進んでいきます。しかし部分的な掘り下げは半端ではありません。マーラーがお得意とする調性の変化を半音下降で示す部分は、下降した部分をぐっと小さく示し、そのことがかえって変化の凄まじさを示してくれます。

パーヴォはその下降する部分をわざと左手をかなり下まで示してオケにおおげさに支持します。こうするとN響も演奏不能な域になるまで下げてくるのですが、これが非常に大きな効果をあげます。今まで昼の日中にいたのが、食が始まって急に夜が来るような不安に襲われます。

何度もこれを体験するうちに、「ああ、これは夜の音楽なのだ」と納得がいきました。交響曲第7番ではっきりと示した夜、不気味だがロマンチックな夜の姿が早くもこの曲で示されているということでしょう。

そのようなコントラストの比を大きくとりながら、快速で進んでいきます。これは第2楽章・第3楽章でも変わりません。すさまじい昼とすさまじい夜のせめぎ合いです。非常に立体的な演奏が心を波立たせます。このメルヘン的な交響曲ですら、マーラーの複雑な心象の影響を逃れてないということでしょうか。聞き応えがありますが、聞いていて疲れることもまた多しです。

第4楽章はそのような対比は行わず、ひたすらに夜の音楽です。デ・ヤングの独唱が深くて美しいです。

余談ですが私はこの曲を初めて知った40年ほど前は、この第4楽章が苦手でしょうがありませんでした。若い私には退屈な音楽でした。当時はこの第4楽章といえばどの演奏でも伊原直子先生が独唱をするのが当たり前のような感じでしたが、伊原先生が立ち上がるたびに「ああ、また退屈な10分ほどが始まる。はやく快活な第5楽章が来ないかしらん」と持ったものです、不謹慎なことでした。

年老いた今では、この第4楽章を聴くことは大きな喜びに変わりました。演奏家の、作曲者の人生を深く感じ取れる楽章です。

爆発的に快活な第5楽章でした。第4楽章と合わせての立体的な表現だと思います。聞き応えがあります。

大好きな第6楽章はここまでの演奏の総まとめです。パーヴォは速いテンポで進みますが、大きな対比を生かして豪快な演奏にまとめ上げました。

パーヴォが指揮すると、N響が子供のように真剣に演奏するのが見ていて好ましいです。第1楽章のクライマックスは弦楽器は忙しい音形ですが、ここを弓も折れよとばかりに真剣に弾くN響の姿は絶えてなかった姿ですし、これが表出できるN響であれば、もともと実力では世界トップクラスのオケですが、おそらく実質的にも世界トップに近づいていくのではと嬉しい予感がします。

サントリーホールの優秀な響き、パーヴォとN響のやる気に満ちた表現的な音楽に彩られた、なかなか聞き応えのあるマーラーの3番でした。インバルが都響を引退した今では、東京でもっとも刺激的なマーラーであろうと思いました。

これも余談ですが、ここまでパーヴォのマーラーを1、2、3、8番と聞いてきて、やはり少し私には合わない部分もあるな、と今更ながらに感じました。たいへん優秀で、今の世界を探してもそう聞けないような名演たちですが、私はもう少し広がりのある、刺激的でなくとも祈りのあるマーラーが好きです。3番も一昨年だかにN響がデュトワと演奏したのが忘れられません。デュトワはパーヴォのような刺激的なことはありませんでしたが、老境に入った彼の心象さながらに穏やかで美しく哀しい終楽章を聞かせてくれて、涙が出ました。私はそのような演奏が好きです。








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October 02, 2016

⚫️今夏、心に残ったCD(その2) 2016.10.02.

(続き) 友人がParryの弦楽のためのEnglish Suiteという曲を演奏すると聞き、そのCDが入手しづらいとこぼしていたので、代わりに探してあげました。ウィリアム・ボウトン指揮のがイギリスNimbusレーベルでかろうじて残っていたので、イギリスから取り寄せて、友人に貸す前に聞いたところ、Parryの作品よりもカップリングされていたFranck-Bridge作曲の弦楽のためのいくつかの小品がいずれも面白く心に残りました。

特に民謡からの引用のある曲は聞きやすいといえます。ある小品は最初は何の曲だか全く分からないほどデフォルメされていたものが、やがて元のメロディの姿に戻っていく(つまり変奏曲を逆に遡るような手法)と、おなじみのダニー・ボーイの旋律をだったりするのを興味深く聞きました。

ボウトンの指揮は音をたっぷりと弾いてくれて私好みです。

この人のCDはもう1つ買いました。ウォルトンの交響曲第2番です。過剰な表情を避け、素直な演奏なのが好ましいですね。

Nimbusの作るCDは私の好みに合う曲や演奏が多いのですが、不況のせいか正規のCDを作るのを止めて、現在出回っているのはCDーRばかりです。私の貧弱な装置ではダイレクトにはかからず、一度PCを通して取り込んでからでないと聴けないのが手間がかかって残念。いずれこの会社も板起こしはやめてダウンロード専門になるのでしょうか。板を愛する私には困った傾向です。

チャイコフスキーの交響曲、つまり3大交響曲よりも、実は初期の3つの交響曲のほうが好きだったりもします。特に第1番の森閑とした幽玄さが好みです。2番の狂騒、3番のたおやかなロマンも好みです。

ソヴィエトの大指揮者、ロジェストヴェンスキーが1980年代にソヴィエト国立交響楽団と録音した2番と3番が1枚のCDで投げ売りされていたので買って聞いたところ、これはまた優秀な演奏はでびっくりしました。

ソヴィエトが崩壊する前のオーケストラは、かなり優秀だったと思わされます。ロジェストヴェンスキーは縦の線も横の線もきちんと合わせる人だったので、いっそうきちんとした演奏に聞こえます。

でもそれだけだったら、私の嫌いな「合っているだけの演奏」になるのですが、ロジェストヴェンスキーはまさに名人芸のような抑揚をつけ、フレッシュな演奏を聴かせてくれます。私は1980年代という去った時代の響きを堪能しつつ、この独特な抑揚を好ましく聞きました。

チャイコフスキーの初期の交響曲を力だけで聞かせる指揮者が増えていますが、それがいかに間違っているかを悟らせてくれる、チャーミングなCDです。

先述のボウトンのようなイギリス人指揮者はすべて「よくて1.5流」と切り捨てたのは先般亡くなった評論家、宇野功芳でした。

宇野功芳の音楽評論は40年以上前からたくさん読みました。あまりにも主観が多くバサバサと切って捨てるので、どうなのかと考えることもしばしばでしたが、まあしかし読ませる評論であることは間違いないことでした。

彼は本職は合唱指揮者でしたが、そちらの面ではあまり目立つことは無く不遇だったかもしれません。しかし評論の人気が本職をはるかに凌駕していたので、ほとんどの人は彼の本業が評論家なのだと思っていました。

彼は日本におけるブルックナーの普及にかなり貢献しています。まだブルックナーが日本で聞かれなかったころから、朝比奈やクナッパーツブッシュやシューリヒトの指揮するブルックナーの素晴らしさをとうとうと述べていたからです。これはのちになって大きな潮流となりました。

批評の鋭すぎる彼、そんな彼に実演もやってもらおうじゃないか、あんなひどいこと書いているのだから、さぞかし実演もできるのだろう、もしできなかったら笑ってやろうと意地悪な気持ちが芽生えるのは人の常です。宇野の偉かったのは、オーケストラの指揮者でないにも関わらず、その手の挑戦を受けたことでしょうか。

1980年代だったか、彼の指揮するブルックナーの交響曲などのレコードが出たことは出ましたが、プロのオケでなくアマチュアのオケだったこともあり、その演奏は「変わってる」ぐらいの評価にしかならなかったように覚えてます。

彼が亡くなってみて、そういえばそんなレコードが出回っていたはずだとネットで探すと、そんな古い音源ではなくて、ほんの数年前にベートーヴェンの7番とシューベルトの未完成を入れたCDが売られていたので買ってみました。オケは日本大学OBによるオケです。

聞いてみて、うーんとうなりました。オケはけっこう優秀です。しかし宇野の音楽は、彼が尊敬するフルトヴェングラーやワルターを彷彿とさせる、徹底的にロマンあふれる演奏だったからです。うなったのは、これを是とするか非とするか、私も一瞬ちゅうちょしたからでした。

でも考えてみれば、私は新古典主義の時代に育ちクラシックが無味乾燥であると錯覚させられた世代です。それを打破してくれたのは私の生まれる直前の演奏家たち、フルトヴェングラー、ワルター、トスカニーニです。あるいは遅れて知ったチェリビダッケであったり。

してみると、宇野の演奏はまさに私の好みにぴったりあっているわけで、これを奇貨とせずにはいられません。

宇野の指揮するベートーヴェンが、ゆっくりとしたテンポでごうごうと盛り上がっていくのを聞くと、ああ、まさに音楽の本質がここにあるな、とひそかに拍手をしました。彼はやっぱり音楽が大好きな人でした。

トスカニーニについて最後に書きます。彼の最新のディスクで非常に感動したからです。

曲はヴェルディのレクイエム。トスカニーニ晩年の名演です。私もよく知っているものです。

ところが数ヶ月前に、このヴェルディの新しいバージョンのCDが出ました。演奏は同じものです。しかし、何とステレオ録音なのです。

何でも、モノーラル録音のマイクとは別にもう1本、試験用か何かのマイクが離れたところに立っていて、それが本番録音も捉えており、2つを合成してステレオ録音にしたという、本当だかどうだかわからないような話です。

でも一聴して私は大興奮しました。本当かどうかはわからないけれど、確かにあの有名な演奏が、音が分離されたステレオ録音で聞こえます。

不自然な感じはありません。おそらくバランスをかなり修復したとは思われますが、最晩年の2つの演奏会ステレオライヴ、すなわち悲愴とワーグナーよりも、さらに鮮明な録音となって現れました。

これを聞くと打ちのめされたような気になります。私はたくさんのトスカニーニを聞いてきました。たくさんの感動と勇気をもらいました。しかしこのマユツバかもしれないヴェルディのステレオ録音は、それらを遥かに凌駕する感動を持ってきました。私の愛した彼の演奏は何だったのか、そんな根源的な問いにまで発展しそうなCDです。

というわけで、感動しながらも困惑して、未だに私の気持ちの整理がつかない問題作です。こんなCDも私の夏を彩ったものでした。

今年の夏はCD鑑賞においていえば、すてきな夏でした。たくさんの名演や名盤に感謝しつつ。

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October 01, 2016

⚫️新鮮なラフマニノフに驚かされる パーヴォ/N響 2016.10.01.

N響C定期、常任指揮者のパーヴォ・ヤルヴィ指揮で、プロコフィエフのピアノ協奏曲第2番とラフマニノフの交響曲第3番という渋いプログラム。ソリストはマツーエフ。

遅刻して前半のプロコフィエフは残念ながら聞けず。ラフマニノフから聞きました。

ラフマニノフの第3交響曲はCDで何度聞いてもピンとこない曲です。第2交響曲のように溢れるような旋律美があるわけでなく、3楽章形式という交響曲としてはやや珍しい構成だし、響きとしては混濁した塊が何度も襲いかかるのが気になる聞きづらい曲です。

さてパーヴォ、いつものように柔らかい棒で出始めます。N響の美しいこと。パーヴォの棒はいくつかの利点がありますが、まずはオケの響きがつややかで豊麗なことがあげられます。

やがて展開部でチェロの美しいカンタービレが登場した時に、ああ、と私は納得しました。オーケストレーションが複雑でCDでは分かりにくかったのですが、このピンとこない曲にも明快な旋律があって、それがこれまでの演奏では隠されていたのだと。

何と豊麗なメロディ。ここのチェロを聞いただけで、第2交響曲に勝るとも劣らない素晴らしさが感じられ、これを聞かせてくれるパーヴォの才覚に感心してしまいます。

旋律の喜びがわかれば、理解が進みます。管楽器が3管編成で複雑に奏でることが多く、それが何を目指しているのかが分かりにくかったのですが、パーヴォの演奏ではこれも明快に分かりました。このラフマニノフは、ロシア音楽の体裁を持ってはいますが、もはやアメリカ音楽なのだと。

アメリカ音楽の近代的な部分、すなわちメロディをも凌駕するような対旋律のからみあいのすさまじさ、そしてそれが一瞬だけ収束するときの乾いた美しさが、この曲の激しい部分で特徴的です。これもCDでは分かりにくかったことです。

いつものようにスウィングしながら指揮するパーヴォ。それによくついていき、楽しげにすら見えるN響。ロシアっぽさを持つアメリカの交響曲が現前する様子に、私はあっけにとられてしまいました。何という名演かと。

ソヴィエトを嫌ってアメリカに定住したラフマニノフが晩年に書いた交響曲第3番。評判が決してよくなかったにも関わらず本人は愛していた曲だそうですが、老いてなおもみずみずしい旋律を持ちながらも、長い滞米で身についた独特の重層さが盛り込まれた傑作なのです。

いやはや、パーヴォには頭が下がります。おそらく得意な曲なのでしょうが、徹底的にオケを洗って旋律を浮かび上がらせ、複雑な響きをストレートで魅力的な響きに変え、この曲の隠れた魅力を引き出してくれたのですから。

パーヴォとN響、この名コンビが長く続きますように。そう祈り、今日も感謝しながらNHKホールを後にしました。

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September 19, 2016

●今夏、心に残ったCD(その1) 2016.09.19.

ここで取り上げたいCD
 ベートーヴェン:交響曲第4番・第5番
 ベートーヴェン:ミサ・ソレムニス
 バッハ:ロ短調ミサ曲
 エルガー:神の王国
 エルガー:弦楽セレナード
 フランク=ブリッジ 弦楽作品集
 チャイコフスキー:交響曲第2番・第3番
 ベートーヴェン:交響曲第7番

 夏は体調を崩して寝込むことが多かった日々でした。家にじっとしているものですから、今年は比較的によくCDを聞いていました。そんな中で心に残ったものをいくつか。

●追悼、アーノンクール
 オーストリアの大指揮者、アーノンクールが亡くなりました。若いころはウィーン交響楽団などでチェロを弾き、その後ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスという古楽器団体を設立して主に17世紀の音楽をフレッシュな演奏で聞かせ、晩年はウィーン・フィルなどのモダンなフルオーケストラを指揮しながらも古楽器演奏の魂を忘れなかった人です。

 アーノンクールを私はそれほど好いていません。私はどちらかというと古楽器風で無い音楽、すなわち音符を音価の時間分だけたっぷりと鳴らすことが好きなのです(今やそんな演奏家はほとんどいなくなりましたが)。アーノンクールが世間で騒がれ始めた70年代終わりから、私はどうも好きになれない、そんな音楽を奏でる人でした。すべてが新しく、そしてすべてが過剰に刺激的な人でした。

 ウィーン・フィルとの実演を聞いたこともあります。ハイドンを聞かせてくれました。今日の演奏の先取りをした、アクセントとディミヌエンドの強い演奏でした。しかしこれがウィーン・フィル本来の演奏とは思えないような、ぎざぎざした音にがっかりしたものです。

 そんなわけで個人的には遠ざかっていた指揮者ですが、それでも彼の偉業を貶めているわけではありません。彼は楽譜に書かれ、それをその当時(50年ほど前)に当たり前に演奏されていたことを徹底的に疑い、おそらくはこんな演奏をしたかったのではないかという姿にして私たちに提示してくれ、その姿は比類なき高みにまで達していったことは確かです。

 ここ20年ほどはモダンなオーケストラを指揮して録音を出すことが多かったのですが、最後のCDは主兵コンツェントゥス・ムジクスとの演奏でした。最後のスタジオ録音であるベートーヴェンの交響曲第4番・第5番を聞くと「ああ、まさにアーノンクールの原点がここにある」と思えるような凄絶な演奏です。

 鋭いアタック、激しいディミヌエンド、高らかなトランペットと激震するティンパニ。美しさを通り越して鬼神が演奏するようなベートーヴェンです。私は「すごい。この人はやっぱりこういう音楽を信じ続けたのだな」と、ちょっと感動しました。彼のぶれない姿勢に対してです。しかしたくさんの問題をはらんだ演奏であり、特に第5番のコーダは「それはないでしょう」と私はつぶやいたりしました。それぐらい凄い演奏で、まあしかしこの夏もっとも心に残ったことには間違いありません。

 同じメンバーによるベートーヴェンでも、最後のライヴ録音となったミサ・ソレムニスになると、大所帯のせいか少し音楽は変わってきます。速めのテンポで進みますが、交響曲ほどの斬新さはありません。しかしここでも楽聖の音符をただの美しいだけの演奏にはしないぞとばかりの気迫が感じられます。劇的でしかも程よく美しい演奏でした。フーガなどはもう少しゆっくりと演奏してほしかったけれど、交響曲よりは素直に受け入れられる演奏でした。

 アーノンクールという芸術がなんであったのか、私も遅ればせながら少しずつ考えて行きたいと思います。


●バッハのロ短調ミサ曲
 この秋に行くもっとも楽しみな演奏会のひとつに、ロ短調ミサ全曲があります。アマチュアの合唱団とオケの演奏ではありますが、ふだんこの大曲をなかなか聞けないでいるので、「秋はロ短調ミサ」と自分の頭にすりこんでおります。

 予習(正確に言うと復習ですが)のCDとして、オーソドックスなもの(リヒターとか鈴木とか)にしようかとも思いましたが、ややあまのじゃくな私は、もっともバッハの似合わない人、つまりカラヤンのCDを取り出して聞きました。

 これこそアーノンクールの正反対の音楽です。音は分厚くべったりとしています。歌はまるでオペラ・アリアのよう。本来、清純であるべきな宗教音楽が、現世の欲にまみれてしまったかのような極彩色の演奏かもしれません。若きアーノンクールはカラヤンの演奏が大嫌いだったそうで、さもありなんと思える両者の違いです。

 それでも私は、カラヤンの演奏に幾分かの正統性を感じないわけでもないのです。人の声を伸ばしていくとそれは自然と音楽になります。バッハやモーツァルトの時代、声は器楽を真似、その器楽が響きの出ない古楽器だったからこそピリオドのようなスタイルに収れんしたのでしょうが、もし当時、現代の楽器があれば素直に音を長く伸ばしたのではないか、その方が心にしみる時間が長くなる、そんなことをカラヤンは考えさせてくれます。

 彼の演奏が極彩色だからといって、彼が不真面目だったわけではありません。名歌手とともにぎりぎりまで表現したことではアーノンクールと変わらなかったと言えましょう。少なくとも70年代のカラヤンは、自分をひたすらに信じた強さと真面目さが共存していました。彼のバッハも私には大事な演奏です。


●エルガー:神の王国、弦楽セレナード
 ミサ・ソレムニスやロ短調ミサなどの宗教音楽につかっていた私は、もう一つ新しい大規模合唱曲の魅力を知りました。 エルガーのカンタータ「神の王国」です。

 もともとエルガーの音楽が好きな私です。若いころ、エニグマ変奏曲でエルガーの虜になったのですが、その後2曲の交響曲やヴァイオリン協奏曲などを通じてすっかり夢中になったものです。また近年では「ゲロンティアスの夢」という超大作でもエルガーに魅せられたところでした。

 名指揮者ヒコックスが亡くなって数年になりますが、ヒコックスが残したエルガーの録音のうち、大規模で高価がゆえに入手しにくかった「神の王国」が、某所で非常に廉価で売られていたので買ってきて聞きましたが、これまた素晴らしい曲、そしておそらく素晴らしい名演です。

 ゲロンティアスよりも素朴なだけに人気が出にくいのでしょうが、一聴しただけでさらにすてきな曲だと思えました。詳しく書くほど精通できてないのが残念ですが、夏の後半をこの曲と過ごせたのは幸いでした。

 エルガーの弦楽セレナードは誰もが認める名曲ですし、名演のCDも数多くあります。最近再発売されたのが、ネヴィル・マリナー指揮アカデミー室内管のCDです。このエルガーの弦セレは、昔から知っていたことですが改めて聞き、いま風に申し上げるなら「神のような」演奏だと思いました。

 カラヤンとは少し異なりますが、マリナーもまた音符をしっかりと弾き切るタイプの演奏家でした。現在非常に高齢になった彼ですが、N響に客演するときの演奏は、まさに20世紀中葉のボリウムたっぷりの演奏を聞かせてくれ、往時をしのばせてくれます。

 かといってマリナーがデリカシーなくただ音を鳴らしていたかというとそうではなく、逆にどこを出してどこを控えるかが明確に指揮できた人でした。そんな彼が作り上げたエルガーの弦セレの素晴らしいこと! 何気ないフレーズは色気を帯び、流麗と沈黙の両方を使い分けながらエルガーの高貴さをさりげなく歌うその抜群の音楽性! 特に2楽章は完璧な演奏といってもいいでしょう。

 エルガーの弦楽作品のその他有名どころや、ディーリアスの短い管弦楽作品をいくつか併録しています。このディーリアスもまた素晴らしい。ビーチャム以降、初めての完璧な演奏だと感じました。ディーリアスのはかなさを的確に表現できる人も現代では居なくなりました。


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September 09, 2016

⚫️パーヴォ/N響 豪快なマーラー「一千人の交響曲」 2016.09.08.

N響は創立90周年を迎えるそうです。私がその姿を知るのは最近の40年ぐらいのことですが、それでも大きな変遷があったと感じます。マタチッチやサヴァリッシュ、岩城らが実質的に率いていた質実剛健の時代あり、初めての音楽監督となったデュトワの精密で華やかな時代あり、続く音楽監督だったアシュケナージの素朴で真面目な時代あり、です。

いま、パーヴォ・ヤルヴィを首席指揮者に迎え、細部にこだわりながらも大きくうねるような演奏をする、新しい時代を迎えました。ヤルヴィの指揮する音楽はどれもわくわくさせられ、いい時代が来たな、と感じられます。

さて、90周年事業として記念演奏会が開かれ、たった一夜ですがマーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」が選ばれ、主にパーヴォお気に入りのエストニア出身の歌手を集めての大演奏会が開かれました。N響としては数年前のデュトワ指揮の同曲の演奏からあまり間をおかずにこの大曲に臨むことになります。

NHKホールの舞台は後方いっぱいに合唱団席が置かれ、新国立劇場合唱団とNHK放送児童合唱団、見た目では総勢約300名ほどでしょうか、が所狭しと並びます。また拡張されたステージ前方にはN響が5管編成の巨大オケとして並びます。フルートパートに至っては6管ですので、その大きさは比類ないものです。

冒頭、オルガンの強奏を伴っての開始部「来たれ、創造主たる精霊よ」が堂々と始められます。私は前回のデュトワは会場では聞けなかったので、NHKホールでこの曲を聞くのは実に久しぶりなのですが、やはりホールの巨大さもあってか、思うように音が飛んでこないのがもどかしいですね。

もっともNHKホールの音にはそれなりの気品があるので、音の小ささを含めての楽しみ方があります。音楽はそれを聴くものには十分なものを届けてくれます。NHKホールをあからさまに否定する方が多いのですが、私は安くたくさんの人にオーケストラやオペラを提供してくれる有益なホールとして私は愛しています。

第1部は特筆することもなく終わりました。元々が狂騒的な音楽であり、誰が指揮しても同じように聞こえます。とにかく押し出していけばいい音楽だと思います。パーヴォはいたるところで小さな工夫をしていましたが、これだけ規模が大きいと、工夫も目立たなくなります。

第2部こそは指揮者の真骨頂が示される部分です。パーヴォは比較的早めのテンポで進めていきながら、随所に大きなうねりを作って、彼らしい回転するような音楽を回していきます。歌手もどの方も水準以上で、特に法悦の神父を歌った方はオペラティックでありながら大衆に温かく教示するような姿勢が素晴らしいと感じました。

神秘の合唱から最後の終結部まで、速めながら間然とすることなく豪快に終わり、この曲を生で聴く喜びに満たしてくれました。オケも合唱も非常に優秀で、まさに日本の1つの模範となる演奏だったと思います。

ただ、欲を言えば、高揚感はあっても人生の奥深さなどは少ないような気がしました。比較するのは意味がないのですが、かつて日本でも若杉やベルティーニやインバルが聞かせてくれたような、魂が震えるような深い喜びというものは少なかったと思います。

パーヴォのマーラー、第1番「巨人」の圧倒的な名演が最初にあったので、第2番「復活」がやはり高揚しながらも深さが感じられず少しもどかしかったように、実は1番のような器楽作品は良くても、2番や8番のような宗教的な合唱大作はあまり私の好みとは合わないのかな、という気がしました。

まあしかしそれは好みの問題。今日の8番の豪快な演奏で、90周年を祝う相応しい演奏となりました。N響は好まない指揮者には言うことを聞かないオケですが、パーヴォと演奏する時は喜々として演奏する姿がとても好ましく、そんな意味でもパーヴォにはこれからもずっとN響にいて欲しいと改めて思った一夜でした。




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July 17, 2016

⚫️意外な名演 アルミンク/N響の新世界 2016.07.17.

N響夏を聞きに行きました。毎年この時期にN響が新進気鋭の指揮者を招いて行う名曲コンサート。今回の演目は「魔笛」序曲、モーツァルトのクラリネット協奏曲(独奏はポール・メイエ)、後半は新世界という超名曲ぞろいです。指揮者はアルミンク。

アルミンクは日本では新進気鋭とは言わないですね。すでに10年近くものあいだ、新日本フィルの監督として東京の楽壇にはおなじみの人だからです。

アルミンクは悪い指揮者では無いと思いますが、音楽がひ弱なイメージがあります。私も最後に聞いたのは数年前のマーラーの大地の歌で、美しいけれどもさして印象に残らなかった気がします。

様々な企画で新日フィルを引っ張ったけれど、何となく影の薄い存在ではありました。

さて1曲めの魔笛。最初の出だしで音程の悪かった管楽器がいたのは残念。中音域だったのでクラかホルンか、音程が上ずり、おやと思いました。しかしその後は立ち直って、やや神経質ながら美しいモーツァルトを聞かせてくれました。アルミンクの美点が生きた演奏だと思います。

メイエにはハプニングが。ずいぶん長いこと舞台裏でクラの音出しが続くので聴衆も少し苦笑。しかもメイエが出てきてあの美しい前奏が流れ、いよいよクラ独奏と思いきや、変なクラの音がびよーん。あれぇと思った瞬間メイエは楽器を放り出すかのように指揮台に置き、スタスタと舞台袖へ引っ込みます。あっけにとられる聴衆、指揮者も困惑顔。

どうも楽器の調子が悪かったらしく、もう1本のクラリネットを持って現れ、涼しい顔で「もう一度」のジェスチャー。今度はうまくいき、流れるような素晴らしいクラリネット独奏を楽しむことができました。しかし現代の演奏家らしく、かなり神経質な気の配りの演奏で、やや疲れたことも否めません。この曲にはもう少し大らかな感覚が欲しいと思いました。

後半は新世界。N響夏が名曲コンサートという位置付けなので、これまでに何度も登場したことのある名曲です。しかし正直に言ってあきたし、アルミンクの繊細でひ弱な表現に合わないのではないかと危惧してあまり期待しませんでした。

ところがあにはからんや、意外なほどの名演となりました。

まずアルミンクの美点である音の美しさです。どんなに強奏しても音が濁らない。これは聞いていて心地の良いものです。

次にテンポの適切さです。やや早めですが、快速でぐいぐいと引っ張る、しかしそれが決して雑な感じを与えず、曲に見合った筋肉質な感じを引き立ててくれます。

そして何よりここが大事ですが、フレーズの処理の美しさです。ドヴォルザークは稀代の旋律家なので美しいフレーズがあまた出てきますが、そのフレーズを長い円弧のように捉えて演奏すると同時に、フレーズ終端をいい加減にすることなくきちんとおしゃれにまとめてくれ、それが次のフレーズへの橋渡しとして生きてきます。したがって音楽が停滞することなく華やかで切ないメロディが百花繚乱として出てくる、まことに素晴らしいドヴォルザークとなりました。

私は聞いていて途中から「これは・・」と感じました。かつて聞いた名匠たちの記憶を呼び起こしてくれたからです。マタチッチ、サヴァリッシュ、スイトナーらがN響と繰り広げてくれた名演たちを彷彿とさせる、男らしくてしかも繊細な演奏にすっかり魅了されてしまいました。

新日フィル時代にはあまり見られなかったものです。もちろん本人の成長もあるでしょうが、当時やる気にかけていた新日フィル、女性らしい演奏しかできなかった新日フィルに比べ、一時の停滞期を脱して、若手が増えてきて今登り坂にあるN響の力強さがこの名演を支えたのかもしれません。

アルミンクの本領を垣間見たような気がします。今後、定期演奏会に呼んでほしいと思いました。今日の名演に感謝します。

(ピアノ・室内楽・声楽の話題はもうひとつの私のブログへどうぞ)


・・今手元には他に・・

ディーリアス, エルガーの弦楽合奏集(CD)
マリナー/アカデミー室内管(1970頃)

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June 12, 2016

⚫️やはりアシュケナージ/N響は・・・2016.06.12.

NHK交響楽団6月の指揮者はウラディーミル・アシュケナージ。前半はバラキレフ作曲の「イスラメイ」とチャイコフスキー作曲の協奏的幻想曲ト長調作品56という大変珍しい作品の上演。

イスラメイはピアノで非常に有名な音楽ですが、オーケストラ演奏は大変珍しいと思います。なんでもバラキレフの弟子リャブノーフと言う人の編曲らしい。どうしてまあ悪くない編曲ではあるけども、特にこの形で、つまりオーケストラ編曲の形でこの名曲を聞くには値しないかなと思いました。イスラメイはやはりピアノでこそ聞きたい名曲だと思います。

チャイコフスキーの協奏的幻想曲とは私も初めて聴く曲です。形としては2楽章30分の大ピアノ協奏曲です。しかしこれは退屈。この世にはびこってない理由もよくわかります。まずピアノが非常に面白くない。まるでエチュードを次から次へとつなげたようなつまらなさ。しかもオーケストラも山場がほとんどなく、何というか晩年の作品にしては駄作だなぁと言う感じです。同じ無名のピアノ協奏曲ならピアノ協奏曲第2番チェロ付きを演奏して欲しかったなと思いました。

後半は、メンデルスゾーン作曲の交響曲第3番「スコットランド」。私の大好きな曲です。果たしてアシュケナージがどのような演奏してくれるのか、興味半分怖さ半分といったところで演奏に臨みました。

怖さ半分と言ったのは、私はかねてからここに書いてるようにアシュケナージの指揮に対して非常に疑問を呈するところがあって、それが悪い方向に作用しないかと気になったからです。

桂冠指揮者アシュケナージがN響に登場するのは確か2年ぶり。前回は、リヒャルト・シュトラウスのアルプス交響曲だったように覚えています。このときの彼の指揮も悪さが出てきました。すなわち小節線を意識しすぎたゴツゴツの音楽になって横の流れが悪かったからです。これはオーケストラ音楽としては致命的だと私は思っています。がっかりした覚えがあります。

これまでに何度も書きましたが、アシュケナージは世界最大のピアニストです。その名を汚すわけでは無いのですが、私は彼には指揮者としてはかなり疑問があります。もちろん楽譜を読む力とかそんなことを言ってるのではありません。彼がピアノ音楽を作るようにオーケストラ音楽を作ってるのが不満なのです。ピアノ音楽は点の音楽です。一瞬一瞬にして音が消えてしまう音楽です。それに対してオーケストラは必ず線の音楽です。線が長く長く伸びていきもつれ合い絡み合い、しかし層をなして美しい織物になっていく、そんな音楽です。アシュケナージが指揮するとその織物が上手にできず、どうしても毛玉がたくさん出来るような音楽になってしまいます。

「スコットランド」は、古典的なロマン派の名作です。したがって、私が危惧するように、小節線を意識しすぎてゴツゴツになるという事は少ないのかもしれません。そう思って少しはアシュケナージの音楽に期待したのですが…。

結果は、全くだめでした。残念なことに。

あの美しい第1楽章からして音楽が停滞しています。音楽が4小節ごとまたは8小節ごとに流れるのではなく、必ず1小節ことに停滞してるのです。これは非常に残念なことです。

さらに悪いことに、音が汚い。もう少し弓をゆっくりにさせれば、もう少し息を長くつなげば美しい響きになっていくのに。何だかやけくそに弾いているような最悪なメンデルスゾーンになりました。

私はここ10年ほど、毎年のようにアシュケナージの指揮を聞いて批判していますが、今日ほど悪かった演奏も珍しいです。

うーむ。聴衆はいつものように大拍手でしたが、私はN響自身とお客様のためには、もう呼ばない方がいいのかも知れないと思います。そこまでダメ出しするのも珍しいのですが、いまオーケストラ文化が世界でも最高に輝き出した東京の楽壇で、年配の彼が晩節を汚すことはして欲しく無いというのが、同じ中高年としての私の正直な気持ちです。




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May 20, 2016

●今や稀有なほど正統な田園 父ヤルヴィ/N響 2016.05.20.

 父ヤルヴィ(ネーメ・ヤルヴィ)は、現N響の常任指揮者パーヴォ・ヤルヴィの父です。私のような年配にはネーメの方が名指揮者としての印象が深いです。その父が指揮するN響のC定期は前半がカリンニコフの第1交響曲、後半がベートーヴェンの第6交響曲「田園」。

 父ヤルヴィはたくさんの録音を作っていますが、特に超絶な名演というものはないものの、豊麗なサウンドが特徴の正直な音楽家という感じでしょうか。北欧もの・ロシアものを得意としています。R.シュトラウスも。以前にN響を指揮したときは確かシベリウスの2番だったと覚えていますが、奇をてらわず驀進する音楽だったような気がします。その頃は他にもシベリウスの2番が目白押しで、N響の場合は特に名誉指揮者のブロムシュテットが名演奏をしたばかりだったので、印象としては損な感じもしました。

 さて前半のカリンニコフです。私は初めて聞きます。カリンニコフは若い人を中心に日本でブームを巻き起こしたそうですが、残念ながら私は知りませんでした。そのブームが老人にまで届いてこないところをみると、表層的な音楽ではないかと思ったから手を出さずにいました。今日がカリンニコフ初体験です。

 なるほど、なかなか面白い響きがします。印象としてはボロディンの交響曲の延長上でしょうか。しかしメロディの美しさと音響で聞かせる音楽は、やはり底が浅いと感じました。当たり前ですがボロディンの方が少し深いでしょうね。まずまずの曲ですが、私は好んで聞くほどではないと思います。父ヤルヴィの音楽つくりは正直で力強いもので、これは当たりです。おそらくこの曲の演奏の名演となるでしょう。

 後半のベートーヴェン。私は父ヤルヴィがベートーヴェンを演奏する姿が思いつきません。彼からもっとも遠い音楽がベートーヴェンだと思います。北欧の寂寥感のある音楽、ロシアの豪快な音楽、R.シュトラウスのとびっきり美麗な音楽とはまったく異なるのがベートーヴェンです。そんなわけでどんな演奏を期待していいのやらはっきり決められず、混乱したまま演奏を迎えました。

 まず父ヤルヴィらしく、古楽器演奏のようないちいちディミニュエンドするような小賢しいことはありません。すべての音が堂々とすっきりと長く伸びていきます。これは大事なことです。弦楽器や木管楽器の美質を保つためにも、音はストレートに長く響かなければなりませんから。小賢しいベートーヴェンなど聞きたくもありません。

 そんなことで好感をもちつつ聞き始めたのですが、どうもそれは曲の隅から隅まで徹底されていることに気づきました。

 決して音そのものが大きくはないのですが、どの音も綺麗な発音と長く響く美麗な音がどこまでも続きます。しかも押し付けた音が無いので、倍音が豊かに聞こえる美しいサウンドです。このような響きはここのところお耳にかかれなかった優れたものです。かつてはどの指揮者もこうしたものを目指していたはずなのに、いつのまにか古楽器風の演奏しなければいけないような風潮になったのはオーケストラ界にとって不幸なことです。

 そのうちに、もっと大事なことに気づきました。音楽が神々しいのです。決して変わったことをしているわけでもない、いまどき珍しい正統派の田園なのですが、それがあちこちで神々しさを生むという現象を導きました。

 たとえば分かりやすい例をひとつ。第4楽章で初めての雷雨が来るシーン、通常は4小節ごとにティンパニのスフォルツァンドがあり、弦も管もアタックだけは強くて急激に音を減衰させるやり方が一般的でしょう。こうした方が衝撃的な感じを与えます。ところが父ヤルヴィは極端な減衰をせずむしろ一定の音量でいつまでも続けます。こうすると衝撃度の度合いが減る代わりに、最後(11小節目から12小節目)で自然界への怖れと感謝が自然に聞こえてくるという至芸を見ることになりました。それはすごいものです。

 ありとあらゆる曲想で、自然な紡ぎ方をしてくれるおかげで、かえってベートーヴェンの音楽の偉大さがしみじみと感じられる、そんな名演となりました。

 比較する必要はないのですが、これに比肩する田園は1970年代のマリナー指揮アカデミー、または60年代のシュミット=イッセルシュテット指揮ウィーン・フィルの田園、はたまた遠く1950年代のモントゥー指揮ロンドン響の田園のような、高雅な田園でした。

 私は父ヤルヴィは1.5流の指揮者ぐらいにしか感じていなかった不明を恥じます。今日の田園は、まさに過去の名匠たちからの系譜を感じさせる名演でした。


(ピアノ・室内楽・声楽の話題は私のもうひとつのこちらへ)


 ・・・いま手元には他に・・・

  楽劇「ヘンゼルとグレーテル」抜粋
             (フンパーディンク)

   ハインツ・ワルベルク指揮
     ケルン・ギュルツェニッヒ管  1974年ころ

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May 01, 2016

⚫️武満の「系図」が聴けて満足 スラトキン指揮N響 2016.05.01.

いささか旧聞になりましたが、スラトキンがN響を指揮した2回の演奏会の感想など。

スラトキンは言わずと知れたアメリカの名指揮者。1980年代から頭角を現し、特に低迷していたセントルイス交響楽団を一流のオケにしたことで名を馳せました。

つまりスラトキンはオーケストラトレーナーとしての手腕が優れていることになります。音程・リズム・バランスを整えてお客に聞かせてくれるタイプです。

このタイプは私はどちらかというと苦手なタイプです。なぜならオケを整えることに終始し、音楽の不思議さや高貴さを見せてくれることが少ない人ばかりだからです。私は音楽とは割り切れないものだと思っていますし、それを唐竹を割るかのように演奏してそれでよしとしている方の演奏は好きになれないからです。

ではスラトキンは嫌いかというと、そうでもありません。スラトキンはそれに加えて、弦楽器の強靭なカンタービレを聞かせてくれることが多く、それがいくつかの曲に輝かしい高貴さを与える結果になるからです。

ディスクでの演奏ですが、評判となったマーラーの「復活」やラフマニノフの第2交響曲、そして何より自国アメリカの音楽が素晴らしく、コープランドの「アパラチアの春」はスラトキンの演奏が一番良いと私は思っています。そんな意味で、曲を選ぶ巨匠であります。

今回のA定期前半はウッド、ストコフスキー、オーマンディらの編曲したバッハ作品の管弦楽版のいくつか。これは私はいただけなかった。20世紀前半にはたびたび行われバッハの音楽の普及に役立ったものの、今どきでは珍しい発表で、バッハの音楽をスペクタクル化した演奏は、古楽器嫌いの私でも「やりすぎでしょう」みたいに感じるものでした。そういえば私が音楽を聴き始めた40年以上前、ストコフスキー指揮チェコ・フィルのバッハ編曲集のLPを買い、解説を読むと絶賛されているのに、ピンとこなかったのを思い出しました。私には合わないのでしょう。

A定期後半はプロコフィエフの第5交響曲。これはスラトキンのお得意中のお得意中のであるし、あの複雑なスコアをきちんと解き明かしつつも、強烈なカンタービレをかましてくるのが心地よく、非常に魅せられた演奏になりました。こちらは満点。

C定期は前半、まずはベルリオーズの「ベアトリスとベネディクト」序曲。こちらは遅刻して聞けずに終わりました。

ついで、武満徹の「系図 ファミリー・トゥリー」。これこそ今回のスラトキンシリーズでもっとも待ち焦がれたもの。初演はスラトキンとニューヨーク・フィルが成し遂げたはず。私はそれは聞いていないけれど、その後に小澤征爾がサイトウキネンと入れたCDでこの曲の美しさに触れ、武満の音楽の中でももっともわかりやすいこの曲を愛してきました。

系図は谷川俊太郎の詩の朗読に音楽がついたもの。詩そのものは10代くらいの少女が家族を冷静に見つめたのを描いたものなので、朗読もまた10代の女性がふさわしいと思います。小澤のCDの中では当時10代前半だった子役女優の遠野凪子が名唱をしてくれて感動的です。このCDは宝物の1つです。

あれ、小澤の「系図」といえば、女優の吉行和子が朗読だったのでは、という方が多いでしょう。実はそれはその後に出て流布したCDで、最初に出た遠野の版は廃盤です。もしかすると遠野のその後の不幸な女優人生と関係があるのかもしれませんが、この曲はやはり高齢の女性が語るよりは少女が語る方が美しく真実味があるというものです。

今回のスラトキンとN響の演奏会では、やはり10代の少女が朗唱してくれました。残念ながら名前は存じ上げないのですが、テレビなどで活躍されている方とか。遠野のややオーバーな表現に比べ、かなり抑えめな朗唱でしたが、これはこれで素晴らしい。この曲が年とともにこなされて、他の解釈を受け入れるだけの名曲になりつつある証明でしょう。

ちょっと疑問に思ったのはスラトキンの演奏。私は小澤のCDで長く聞いてきたせいか、CDでの楽器のバランスがいかにも日本的で心地よく思ってきたのですが、スラトキンの腕にかかるとかなり表現主義的で、いろいろな部分が突出して聞こえてきます。

普段、小澤の音楽を毛嫌いしている私ですが、武満の音楽だけはやはり小澤が素晴らしい。濡れたような感性を聞かせてくれます。スラトキンは当たり前といえば当たり前だけれど、乾きすぎていて武満ではないみたい。まあそれも武満のグローバル化だと納得すべきでしょうが。

まずは系図を生で聴けて満足しました。最後のアコーディオンはいつ聴いても素晴らしいものです。

後半のブラームスの第1交響曲は、非常に身の詰まった演奏で、スラトキン節が炸裂しましたが、私はこのような演奏は好みません。

というわけで、非常に尊敬もしている名指揮者ですが、予定通り好悪の分かれる演奏となりました。次回はぜひアメリカ音楽を聞かせてほしいものです。

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April 17, 2016

⚫️歴史的な名演 ロト/都響の「火の鳥」1910年版

都響のシーズンは4月に始まり3月に終わります。今シーズン最初の定期は今話題のロト指揮で始まりました。

曲は「ペトルーシュカ」と「火の鳥」。いずれも初版ですので、4管編成の膨大な曲です。どちらも最近、ロトが手兵と録音してCD化され話題になった曲です。

私はCDは聞いていません。聞くところによれば、確か現代楽器と古楽器を混ぜて演奏していたような印象がありますが、間違っていたらごめんなさい。

さて、ペトルーシュカについては省かせていただきます。私見では、ストラヴィンスキーの色々な作風の中でペトルーシュカは「点の音楽」だと思っています。すなわち旋律線が長くなく、弦楽器も管楽器も、打楽器的な音の短い瞬発さが要求されます。これは私の得意とする音楽ではありません。最近では山田和樹がN響と名演を繰り広げましたが、ロトの今日の演奏は素晴らしいものの、山田のしっとりとした美しさにはかなわなかったような気がします。

「火の鳥」はストラヴィンスキーの中でも「線の音楽」であり、豊かな旋律線があります。私は躊躇なくこの曲がストラヴィンスキーの最高傑作だと思います。もちろん革新さでは春の祭典を始めとする多くの曲がありますし、好きなと言われればプルチネッラの方が好きかもしれませんが、私にとっての傑作は火の鳥、しかも今日の1910年版です。

冒頭は強いて言えば木管楽器を長くテヌート気味に吹かせるぐらいで、それ以外は特に変わったこともなく安心して聞いていたのですが、開始5分ぐらいで現れる弦楽器のスルポンティチェリがあまりにも大きくて、心がざわざわし始めました。

やがて色々と不思議な効果が現れ始めました。決してテンポは速めない、むしろ遅めかもしれませんが、各楽器の歌い回しが、これまでいろいろ聞いてきた音楽とは違う、何やらでこぼこの激しい田舎道をドライブしているような、そんな感じです。

何だろうこれは、と私は思います。これまで聞いてきた火の鳥とは違う、しかしよくない演奏かと聞かれれば、そうも言えない、魅力に溢れた演奏が次々と繰り広げられました。

あることには気がつきました。それは楽器のバランスです。通常指揮者は、特にひどい指揮者でなければ音のバランスを整えます。低音をしっかりさせ、中音がそこに乗っかり、高音はささやくように吹かせて弾かせて、ピラミッドのようなバランスを作ることが良しとされますが、どうもロトの火の鳥は違うようです。

あるフレーズでは驚くほど高音がきつく届いてき、あるフレーズでは低音がこれでもかと襲ってくる、しかしそれは「点の音楽」では無いので、不快感は伴わないのです。従来の表現主義的な演奏だと、そうした変化を鋭く短くすることで聴衆をびっくりさせることが主眼だったと思いますが、ロトの表現は線として、あるいは極端なことを言えば面として聴衆に届けられるので、びっくりしてしかも不快に思うよりは、感心させられることが多いのです。

もちろんそれは、音楽の自然な流れを阻害しては意味が無いわけです。ロトはこれまでのやり方と変わったことをしているかもしれませんが、自然な呼吸の上でやっているので、音楽が実に豊麗に紡がれていきます。ここが大事なところでしょう。

音のバランスを変えることで新しい響を感じると同時に、これまでには聞いたことも無い立体感が生まれるのも感じました。私はこれまで1910年版はアンセルメの最晩年の録音(今でもこれが私のベスト)やデュトワの美しすぎる演奏を好んできましたが、これらの演奏が整えられすぎている結果、それほど立体的ではなかったのかもしれないと思えるようになりました。強いて言えば、録音が残っていませんがモントゥーが指揮した1910年版であれば、ロトに近いものがあったかもしれません。

しかし、1910年版の何と豊穣なことでしょう。火の鳥は様々な組曲が作曲者自身の編曲で出ていますが、組曲がいかに良い曲で人気があったとしても、この1910年版に秘められた数々の豊麗な音楽をバッサリと切り落としていることになります。これを聞くと「カスチェイ」から「子守唄」を経て終曲に至るその意味が、より深くなるような気がします。これを知らずに組曲だけ聞いている人は惜しいことをしています。

さてその終曲、ロトはこれまた他の人とは違って、「線の音楽」を「点の音楽」に戻してきました。普段の私なら拒否感を示すところですが、これまでのあまりにも革新的でしかも美しく劇的な演奏を聴いた後では、「この表現も有り得る」と許容する気持ちになり、大きな高揚感を得ることができました。

また都響も素晴らしい。いま日本で最も高機能なオケだと思いますが、今日の精妙で大胆な演奏を聴いていると、もはや他国のオケをありがたがって聞く必要は無いと断言できます。この都響といい読響といい、ヤルヴィの指揮するN響といい、現在の世界では類を見ないくらい刺激的なオーケストラが競演しているのが東京のオケ界です。40年聞いてきて、ついに日本のオケの花開く時代が来たのだなと強く感じ嬉しく思いました。

今日の演奏、指揮者はどこをとっても楽譜を深く読み、凄まじいほどのアナリーゼをして演奏に反映させたものと思われます。このロトの登場で、火の鳥1910年版は、これまでにない鮮やかで深い演奏になりました。驚くべき成果です。

私はこれは、火の鳥の歴史的な演奏になったのではないかと思います。それぐらい素晴らしい演奏でした。

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March 29, 2016

●「ボエーム」ウィーン国立歌劇場 2016.03.29.

所用あってウィーンに来, 夜はオペラを見ています。旅先にてキーボード端末もなく不便なので, 印象を簡単に記しておきます。オケのページのつもりですので、オケの話を中心に。

ウィーン国立歌劇場、この日の「ボエーム」の指揮は何とシモーネ・ヤング。女流指揮者が国立歌劇場の指揮台に立つとは、時代が変わったものです。

ヤングはブルックナーやブラームスのCDでお馴染みで、男性顔負けの重厚な音楽を作る人。またハンブルク歌劇場での「ニーベルングの指輪」は逆にしなやかな女性らしい音楽作りで、それはそれで感動したものです。

彼女のボエームはオケの表現の起伏を大きくとって、非常に劇的でした。これまた男性顔負けです。

ただ・・・あまりに劇的表現をするがあまり、このオペラのイタリア歌劇的な側面、つまり軽やかさとか愛らしさなどが犠牲になってしまった風があります。

オーケストラはウィーン・フィルの母体ですので、さすがに手慣れたものでした。

ただここ40年ぐらい現地でときどき聞いていて、国立歌劇場のオケは相変わらずですが、この数十年の間に日本のプロオケのトップクラスはこれにほとんど変わらないぐらいに肉薄してきたな、と思います。

オケを聞き慣れない人は、音程とリズム、アインザッツの鋭さや管打の音の大きさでオケを判断してしまいがちですが、私は音の受け渡しの自然さ, 連結感こそがオケのもっとも重要な能力だと思っています。

アメリカの大半のオケはこれが苦手です。彼らにそれを言うと大半の人が「そんなことは楽譜に書いてない」と涼しい顔で知らん顔しますが、ヨーロッパの人でこれを気にしない人はいません。ヨーロッパで生まれたオーケストラ芸術を、アメリカ人も日本人も誤解している人が多いのが残念です。

しかし日本のプロのトップのうち、N響と東フィルは、オペラの伴奏においてはウィーン国立歌劇場に負けないぐらい、音楽的に優れてきました。

ヤングの指揮するボエームを聞きながら、私は日本の新国立劇場で(東フィルの演奏で)、ドイツオペラをヤングが指揮するのを聞いてみたいと思いました。


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March 06, 2016

●マーラー8番の演奏に参加して 2016.03.06.

 先日おこなわれた、マーラーの交響曲第8番「千人の交響曲」の演奏に参加しました。おそらくこのようなことは人生に1度しかないことだと思いますので、感じたことなどを書き留めておきたいと思います。

 御存じない方のために簡単に書きますと、巨大な交響曲を書いたことで有名なマーラーの作品の中でもこの8番は別格です。演奏時間は80分ほどと他の交響曲とさして変わらないのですが、5管編成のオーケストラ(ベートーヴェンやブラームスは2管編成で、その大きさが一種のスタンダードになっています)と8人の独唱者、2つの混声合唱団と児童合唱団が必要という桁外れの規模の曲です。冒頭から合唱が演奏されますので、交響曲というよりはカンタータといったほうが良いでしょう。1910年の初演時にはマーラー自身が指揮をし、演奏者は1000人余を要したとのことで、マーラー自身は嫌いましたが「千人の交響曲」というあだ名がついています。

 高校時代からウィーンで勉強され、チェリビダッケやベルティーニに師事したという指揮者、井上喜惟は、日本でジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラを結成し、世紀が変わったあたりから全曲演奏を目指しつつ1~2年に1曲のペースでこつこつとマーラー演奏を東京や川崎で積み重ねてきました。1番~7番、9番、10番(クック版)を演奏終了した時点で「8番は規模的・経済的に無理」とお考えになったのかオケの解散を示唆していましたが、川崎市の関係各位の援助により、オケを改組して新たに「大地の歌」(2015年8月演奏)、そして2016年2月28日に8番をミューザ川崎で演奏し、ついに長きにわたるプロジェクトを完遂させました。

 おそらくこれを読む方は、これだけ大規模の曲がどのような過程を経て演奏にまでこぎつけるのかご興味があると思います。

 私は一介の弦楽器奏者なので詳しくはわかりませんが、やはり相当な苦労があったように感じています。オケは母体があるので、追加の人員を募集することだけで何とかなりますが、合唱団を育てることがまず大変だったようです。既存の合唱団(特に児童合唱)を探して依頼をしつつ、公募により成人の合唱も集め、一年近くにわたって練習し本番を迎えました。合唱関係者の努力がこの演奏を支えたと言っても良いでしょう。

 膨大な特殊楽器群もまた大変です。まずはパイプオルガン。これはミューザ川崎のオルガンを使い、プロの演奏家に来ていただきました。それとは別にハルモニウム、ピアノ、チェレスタといった鍵盤楽器、2台のハープに4人のマンドリン、2台のティンパニを含む数多い打楽器たち。これらの楽器の調達と演奏者をそろえることも大事なことです。また第1部と第2部の終結を彩るバンダ(金管の別働隊)も編成しなければなりません。これを書いただけでも気の遠くなるようなことであり、準備するだけでもおそらく大変な作業だったでしょう。

 練習会場の確保もまた大事なことです。1000人は必要なくても、最低でも400人が一同に会する練習会場はそうありません。幸い、ミューザ川崎の舞台を数回使わせていただき、本番さながらの練習が深まったことは大きな力になりました。そうしたマネジメント的な苦労は、指揮者の井上喜惟と主宰者がきちんと健闘してくださり、私のようなオケの一員は安心して練習に励むことができました。

 オケ自体は5ヶ月前から練習に入り、2週間に一度、4時間の練習を重ねました。年が明けてからの2ヶ月近くは合唱との合わせで毎週のように練習をしました。これだけの練習を積み重ねたことが、曲への理解につながり良い結果を生んだと思います。周囲の仲間を評価するのはおこがましいのですが、マエストロ井上喜惟の音楽性に共感して集まったオケのメンバーは非常に優秀であり、練習の録音を聞いても美しい演奏を奏でてくれています。特に管打楽器は演奏困難な曲ですが、破綻もほとんどなく演奏していることを思うと、これらのメンバーの優秀さに頭が下がる思いです。

 2016年1月、初めてオケと合唱が一同に会して練習したときの感動を何と伝えれば良いでしょう。私たちオケにとっては合唱部分を知らずに練習してきただけに、不安と期待でいっぱいの初合わせでしたが、合唱の最初の歌声がホールいっぱいに響いたときの感覚は今でも忘れられません。マーラー自身が「神が語る。宇宙が鳴り響く」と手紙に書いたそうですが、まさにそのとおりの響きが現出し、鳥肌がたつだけでなく髪の毛が逆立つような衝撃を覚えました。

 児童合唱の可憐なこともまたメンバーを喜ばせました。小中学生が大半のようでしたが、慣れないドイツ語を精一杯歌う姿に、私たちオケも勇気づけられたものです。あの子達は今回の演奏の意味はわからなくても、おそらく長じたときに参加したことの重要性がわかってくれるだろうとオケメンバーで話したものです。

 少し話は変わりますが、今回は生涯の良き思い出にと演奏に参加した私ですが、この曲自体は何度もナマで聞いて知っています。古くは渡邊暁雄指揮の演奏で聞きました。40年ぐらい前でしょうか。初めて聞く衝撃はあったものの、オケも合唱も粗雑で(失礼)迫力だけの演奏だったかもしれません。

 しかし滅多に演奏されない曲ですので、それ以来、東京で演奏があるときはなるべく聞きに行くようにしています。高名な人ほど良いかというとそうでもなく、たとえばシノーポリが東京で指揮したものは期待したほど良くなかったです。心に残る8番はサントリーホール開館の若杉弘指揮のもの、ベルティーニ指揮、インバル指揮のもの(古い方)などです。こうして書くと都響の演奏ばかりですが、これは都響が積極的にマーラーを取り上げていることと、良いマーラー指揮者に恵まれたことが主な要因でしょう。

 この曲は演奏をまとめるのが精一杯の場合が多く、細かな音楽的なことが犠牲になるために、演奏も曲もなかなか良いものに出会えません。CDでも良い演奏にめぐり合えることがまれです。私が良いと思えるのはテンシュテットの2回目の演奏(ライヴ)と、ノイマン指揮の演奏ぐらいです。ギーレン、シャイーのがわずかに良いでしょうか。世評高いショルティは整っているだけでつまらない演奏。小澤は他の曲に比べれば良い演奏ですが、表面だけを掬った表現に不満が残ります。バーンスタインは粗っぽい。クーベリック、シノーポリ、アバド、ラトル、ゲルギエフ、マゼールいずれも美しいとは思うものの、この曲の深さにまで至ってないような気がします。

 自分が楽譜を演奏したことで、演奏会を聞いても気づかなかったこと、LPやCDを聞いても聞き取れなかったことがたくさんあることに気づきました。その筆頭はオーケストレーションの美しさです。第7番の複雑さや大地の歌・第9番のオーケストレーションの凄さはCDでも伝わってきますが、8番の高貴なオーケストレーションは客席やメディアではなかなか聞き取れないことが多く、今回はたくさんの箇所で目からうろこが落ちるような美しさに出会いました。

 これらが録音では埋もれてしまうのでもったいないことです。そしてそのオーケストレーションは、深い深いものでもあります。私たちの多くはこの曲にオーディオ的な音の大きさ・快楽しか求めない浅薄な聞き方をしますが、実は大地の歌や9番に匹敵するような深い精神性を持っていることに、私は気づかされました。これらが大きな音で隠れてしまうのがこの曲の宿命かな、とも残念に思いました。

 演奏そのものは自分が加わったことで冷静な評価ができないかもしれませんが、合唱団や独唱者の力演、緻密な練習を重ねて深い響きとなったオケの演奏、そして何より表面的なことを嫌いひたすら深く深く表現していく井上喜惟の素晴らしさによって、世にも稀な深い8番の名演奏ができたのではないかと思います。

 アゴーギクを多用しながらゆっくりと頂点を目指す井上喜惟、神秘の合唱からコーダまでの長い長い道程の中で、弾く私は思わず涙が出て止まりませんでした。このような感動を与えてくれたマエストロ井上喜惟と演奏メンバーに感謝いたします。
   

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February 08, 2016

●ブルックナー5番 巨大な舞踏に感銘 P.ヤルヴィ/N響 2016. 02.07.

N響の首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィ。昨年以来、マーラーやR.シュトラウス、ショスタコーヴィチやベルリオーズに名演を繰り広げてきました。今月はそのヤルヴィがN響を指揮する月。Aプロはブルックナーの5番、Bプロはツァラトゥストラ、Cプロはニルセンの5番と、意欲的なプログラムを組んできました。

Aプロ、1曲めはマーラーの「亡き子をしのぶ歌」。バリトン独唱はマティアス・ゲルネ。世界最高のバリトンの名に恥じぬ、美しく深い歌唱です。フィッシャー=ディースカウの弟子らしく知的な歌です。もう少し感情移入してもいいかなとも思いますが、これが現代風でしょう。N響の美しさも特筆すべきものです。

メインのブルックナー、すでにCDなどではまずまずの評価を得ているようですが、私はCDを未聴ながら、あまりパーヴォ・ヤルヴィとブルックナーが合うようには思えません。ヤルヴィの細かい表情付けの世界とブルックナーの素朴な世界が合わないような気がするからですl。

さて演奏が始まりました。やや早めのテンポで進みます。予想した通り、重量級の演奏ではありません。テンポと音の大きさが少し膨らんだり少し閉じたりしながら進みます。ははあ、やはり細かい表情付けをしてきたな、と軽く警戒します。

私が警戒するのは、少なくとも私が聞いた経験においては、ブルックナー演奏において、表情付けすればするほど、真実から遠ざかる演奏が多かったからです。例えばマーラー演奏であれだけ効果を上げるインバルの演奏も、同じことをブルックナーにするので、いつも興ざめになります。

インバル/都響のブルックナー5番もかつて聞きましたが、旋律を無理やりにデフォルメしながら壮大に歌わせようとする彼のやり方に辟易した覚えがあります。かといって何もしないブルックナーがいつも良いかとも言えません。同じN響で聞いたヤノフスキ指揮の5番は、期待したにもかかわらずあまりにも素朴すぎて感興も湧かなかった、この時ばかりはインバルを懐かしく思ったほどでした。なかなか難しいものです。

他にもこのような例は枚挙がありません。私の好きなフルトヴェングラーですら、ブルックナー演奏はいじり回しが多くて聞けたものではありません。最近、都響かどこかで聞いたストリンガーという指揮者のブルックナーも、それはそれはひどいものでした。

さて今日のパーヴォ、先述のように少しづつ変化をつける内に、私はおや、と思い始めました。インバルのような表情付けに聞こえましたが、少し違うぞと気がついたからです。

フレーズが変わるごとに、やや小さめの音で始める。少し遅めのテンポ。それがゆっくりとクレッシェンドすると同時にテンポが少しづつ速まる。ところがやがて音量が落ち始め、と同時にテンポがまたゆっくりになる。この繰り返しです。

はた、と私は気づきます。これは円運動なのだと。パーヴォの指揮姿も円運動が多いのですが、その紡ぎ出す音楽もいつも一定のテンポと音量ではなく、一種の円運動を描きながら進んでいきます。

そのうちに、さらに気がつきます。これは舞踏だ。円運動をしながら舞踏が行われている。それが2拍子であれ4拍子であれ、3拍子で踊るウィンナ・ワルツのようにゆるやかに円を描きながら踊っている、そうパーヴォも踊る、N響もかすかに踊る。

これに気がつくと、がぜんとパーヴォのブルックナーが面白くなりました。第1楽章のコーダで巨大な音響が築かれたまさにその時、私は絵姿でしかしらないブルックナーその人が、舞台の上で無骨な舞踏を踊る姿が見えてしまいました。興奮しました。

第2楽章の猛烈な速さと舞踏、第3楽章のスケルツォの猛烈な回転運動(まさに回転運動)この舞踏を支えるのはN響の分厚い弦楽器群です。彼らの能力なくしては音楽が空回りしてしまいます。

そして第4楽章。誰もが期待する巨大な音響の大伽藍。パーヴォは期待は裏切りません。最後のコーダでの大きさはまさにブルックナーの醍醐味ですが、むしろそこに至るまでの寄せては返す大波小波のような演奏に私たちはうっとりさせられます。そう、パーヴォは踊る、N響も踊る。踊りながら頂点に上りつめていきます。ここでも最近のN響の優秀さをまざまざと感じました。

いやはや、感心しました。40年前、私はマタチッチとヨッフムと朝比奈によってブルックナー観を育てられました。そのブルックナー観がついに覆される時がきたようです。今日ここで出会えたブルックナーは、目からうろこが落ちるような、円を描きながら美しく呼吸する演奏でした。

私はパーヴォを全面的に肯定する人でもありませんが、昨年のマーラーといいシュトラウスといい今年のブルックナーといい、実に良き人がN響に、東京楽壇に来てくれたのだなあと、いまは感謝の念でいっぱいです。



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・・・今、手元には他に・・・

ヤルミラ・ノヴォトナー名唱集
(1930-1947)

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January 26, 2016

●カンポーリ、ボールトのエルガー協奏曲(CD) 2016.01.26.

指揮者エイドリアン・ボールトについては以前にも書いたことがありますが、目立たぬ存在ではあるものの、非常に誠実でスケールの大きい演奏をする人でした。

母国イギリス音楽の紹介につとめたので、残された録音にはエルガー、ヴォーン=ウィリアムズ、ホルストといった作曲家が多いのですが、ドイツ古典派ロマン派も得意としており、ハイドン、モーツァルトからワーグナーに至るまで、充実した演奏を繰り広げていた人でもあります。

今日届いた10枚組のCDは、彼の多彩な活動を示すもので、イギリス音楽が6枚、メニューヒンとのパガニーニのヴァイオリン協奏曲、アニー・フィッシャーとのモーツアルト協奏曲、グルダとのショパンの第1協奏曲、シューマンの第4交響曲、シベリウスの序曲テンペスト、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウを外題に招いたブゾーニの歌劇「ファウスト博士」などが入っています。

何から聞こうか、この選択の瞬間がたまらず嬉しい私ですが、今日は奇をてらわず、ボールトならイギリス音楽ですからエルガーを聞くことにしました。

カザルスの独奏、ボールト指揮BBC響の1945年10月の録音でチェロ協奏曲。一般にカザルスのエルガーと呼ばれ親しまれているものです。この曲の晦渋ささながらに晦渋な演奏です。エルガーの音楽が好きな私ですが、この曲はもう少し意図的な豪快さ、明快さが無いと映えない曲かもしれません。終戦の年の秋、カザルスもボールトも、何か期するところがあって演奏したことと思いますが、残念ながらその高揚感が伝わってこないもどかしさがあります。

ついでカンポーリの独奏、ボールト指揮ロンドン・フィルの1955年の録音でヴァイオリン協奏曲。モノーラル時代の名演と言われている盤。

こちらは初めて聞きましたが、噂通りの大変な名演。

まずはカンポーリの独奏が素晴らしい。イタリア人らしい輝かしいヴァイオリンがくすんだエルガーに明るい光を当ててくれます。私はこの曲はハイフェッツの演奏でよく聞きますが、ハイフェッツの超絶技巧で人を黙らせるのとはまた違った、真からこの曲を愛し奏でているという感じのこの演奏は、たいへんに好感が持てます。カンポーリという伝説のヴァイオリニストを私は自分として初めて「発見」しました。

ボールトの伴奏もまた素晴らしい。輝かしいカンポーリに触発されたのか負けまいとしてなのか、オーケストラの隅々までよく歌い、強弱の差をくっきりと出した、迫力がありながらカンタービレの効いた名演です。ボールトが愛していたトスカニーニが演奏したらこのようになるのではないか、と思えるほどです。

エルガーの演奏は凡庸な指揮者だとひどくつまらなく聞こえますが、このヴァイオリン協奏曲でのボールトは目の覚めるような快演です。このようなディスクに出会うと、まだまだ私の盤漁りは止められないな、と苦笑しました。感服しました。



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January 25, 2016

●ブーレーズ、クリーグランド、NYP(CD) 2016.01.25.

ピエール・ブーレーズが亡くなりました。私は特段ブーレーズに思い入れはありません。非常に若い頃は前衛作曲家としてヨーロッパ楽壇を席巻し、人生の後半はむしろ指揮者として世間に認知されました。

私の記憶にある彼の姿は、彼の方向性とは異なるかもしれない2つのオーケストラ、アメリカのクリーヴランド管弦楽団とニューヨーク・フィルの首席指揮者や音楽監督であり、その透徹した音楽づくりが意外とこれらアメリカのオケにマッチしていたことぐらいです。

昨日、ブーレーズ追悼のためにN響との演奏バルトークの「中国の不思議な役人」がテレビで流されており、それを見ながら聴きながら、やはりこの人の真骨頂はこうした20世紀の音楽、しかしそれほど前衛的でない20世紀前半の音楽をわかりやすく演奏してくれていたことだったなあと思いました。現代のジョナサン・ノットの指揮ぶりをどこかで見たことあるようなと感じていましたが、あああれはブーレーズっぽい指揮であり音楽づくりだったのだと今更ながらに思い出しました。

話は変わりますが先日の山田和樹とN響の演奏でペトルーシュカに感心したことを書きましたが、その直後に「巧い」ペトルーシュカが聴きたくなり、N響も十分にうまかったけれどさらに巧いとなるとどこだろうなどと考えていたら、ベルリン・フィルやシカゴ響などよりもニューヨーク・フィル(NYP)のことが真っ先に思い浮かび、そのCDを買って帰りました。こういう場合、音が荒れているバーンスタインなどは聞きたくない(笑)ので、ブーレーズ指揮NYPのを買って帰りました。

このCDはまずクリーヴランド管弦楽団の「春の祭典」が入っており、その演奏もかつては名演として知られたものです。アメリカの田舎オケだったクリーヴランド管をジョージ・セルがビシビシと鍛え上げてアメリカ屈指のアンサンブル集団に仕上げた、その最晩年にあたる時期です。

そのクリーヴランド管の春の祭典、今聞いてみるとそれほどの感興は感じません。オケはそこそこに巧いし、迫力にも欠きません。ただオケのまとまりとか品位というものが感じられず、ただ楽譜に書いてあることをブーレーズの言う通りに演奏しただけ、という無機的な印象が感じられます。

クリーヴランド管という団体は評価に困る団体です。セルのもとでいくつもの名演をレコードに残しましたが、それはセルの鍛え方と、たくさんの古参の団員をセルが首にし若い人を入れたことによる、上り坂にあった団体独特の熱気と悲愴感みたいなものがあったからです。いま考えればセルの死去の頃でもそれほど巧いオケではなかったのではないでしょうか(もちろん巧いことと名演であることは無関係です。初来日時のシベリウス2番ライヴなど、今でも私のベスト盤です)。

マゼールやドホナーニ時代のクリーヴランド管は、豊富な資金と名声によって優秀な演奏家をたくさん取り入れたスーパーオケでした。この時代、私は東京でナマで聞いたときに、聞きなれない巨大な響きに戸惑いましたが、それは彼らの木管が日常的に出す音であると知った時の驚愕というか呆れたことを今でも覚えています。

まあ要するに、ブーレーズが春の祭典を録音した頃のクリーヴランド管は、精一杯背伸びをしたことがやっと認められた頃の余裕のない響きでつまらない感じがします。

さて、CDではその後におめあてのペトルーシュカが入っていますが、これは同じ指揮者の同じ頃の録音とは思えないほどの素晴らしい名演です。

何が素晴らしいのか。もちろんオケが素晴らしいのです。

NYPは150年前から、アメリカを代表するオーケストラです。アンサンブルの精妙さや響きにおいてはフィラデルフィア管やシカゴ響に劣るかもしれませんが、ここぞというときに本気を爆発させるNYPに敵うアメリカのオケはありません。

そして常設でそれだけの実力を持ってきた団体が有する気品・風格がこの録音にも満ち溢れています。ブーレーズのおそらくザッハリッヒだった指揮や指示に対し、「いやいや俺たちはこういくぜ」という自発性と色気が随所に見られ、それが有機的に演奏を盛り上げていて感動的です。成り上りのクリーヴランド管ではこうはいかなかったのです。

こうした録音を聞いてみると、やはりオケは一朝一夕では優秀にはなれないし(未だにクリーヴランド管はNYPに追いついていませんし)、日常的にメンバーが顔を合わせて切磋琢磨する、その伝統こそがオケを育てていく最大の要素だな、と思いました。

自分の得意でない指揮者とオーケストラたちながら、オケの成長や到達点なども考えさせてくれた、貴重な機会となりました。



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January 18, 2016

●ニューヨーク・フィル大晦日コンサート(TV) 2016.01.18.

 ニューヨーク・フィルハーモニックは、ちょっぴりあこがれるオーケストラではあります。年配者にとってバーンスタインが長らく音楽監督として君臨した愛すべきオケであり、その前はワルターやロジンスキー、ミトロプーロス、さらにその前は録音で知られる限りはバルビローリとトスカニーニのオケでもありました。

 バーンスタイン後はブーレーズ、メータ、マズア、マゼールらがシェフをつとめ、現在は日系のアラン・ギルバートです。このところ正規のCD録音が途絶えているようで、日本に動向が伝わりにくくなっているのが残念です(ネットを観れば良いのですが、私はオケをネットで見聞きするのが好きではないのです)。

 いずれの時代も強靭な金管楽器打楽器と、これまた鋼のように硬い弦楽器が特徴の、アメリカらしさを代表するオケだと認識しています。またプライドの高いオケでもあり、柔軟さは皆無、時には指揮者を無視してオケが信じた道をゆく、そんな印象が強いようです。

 ヨーロッパ系のオケの響きが大好きな私としては、それに拮抗するようなNYPの響きは好ましくないのかもしれませんが、ゆえになおのこと気になるのかもしれません。たとえばヨーロッパ的なアメリカのオケ、ボストン交響楽団などはまったく興味がわきません。ボストン響を聞くならヨーロッパのオケを聞きたいからです。

 さて、様々なことを「ようです」と伝聞で書くのは、実は私はナマで聞いたことのない唯一の重要なオケで、これまで機会に恵まれずにきました。日本で聞くにはあまりにもチケット代が高いので、いずれニューヨークに行ったときにでも聞きたいと思っていますが、まだ叶っていません。

 今日ここに書く印象も、残念ながらTV視聴によるものです。TVがいかにあてにならないかは、N響のコンサートのTV視聴で心にしみています(どれもが何と名演に聞こえることでしょう笑)、ニューヨーク・フィル(以下NYP)はなかなかライヴ放送にお目にかかれないので、今日のプログラムはまたとないチャンスでした。

 2015年の大晦日コンサート、今年のテーマはパリの一夜、指揮はアラン・ギルバート。中ぐらいの劇場で行なわれているようで、NYPもフル編成ではなく2管編成のようです。1曲目はオッフェンバックの天国と地獄。非常に華やかで、弦も管打もアインザッツの鋭い演奏をしています。このへんは私のNYPの印象どおりでしょうか。

 しかし画面で見る限りは意外なことがわかりました。私が抱いている印象ではこのオケの楽団員はおそろしげな顔をした名プレーヤーのおじさんたちの集団でしたが、現在の実態は(当たり前と言えば当たり前ですが)若者、女性、アジア人、黒人プレーヤーが大勢であり、抱いた白人中高年ばかりの集団というイメージが覆されました。まあ私のイメージはバーンスタインと一緒にテレビに映っていたころの、つまりは50年も昔の印象ですから、今では時代錯誤も甚だしいことです。

 続いてスーザン・グラハムのアルト独唱でオペレッタの歌を2曲。グラハムはたぶん何度か聞いていますが印象に残っていません。でも軽いオペレッタを精一杯コケティッシュに歌う姿は好ましいものです。

 続いて小曽根眞ほかのピアノを入れて、サン=サーンスの「動物の謝肉祭」をコミカルなナレーション付きで。私はジャズピアニストの彼のクラシックの演奏を歓迎してはいませんが、このようなくだけた演奏会で彼のエンターティンメントは貴重でしょう。いずれも伴奏は小編成、楽団員もリラックスして演奏しており、特に感想はありませんが、出てくる音はやはりこのオケらしく大きく鋭いものです。またそのような演奏をアメリカ人が好むことも事実です。

 さらにラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」オケ中の小曽根のピアノ編曲がジャジーで気に入りません。グラハムの独唱でポピュラー音楽を数曲、オッフェンバックのメドレーやラマルセイエーズなど肩の凝らないプログラムです。

 ただこれだけのTV視聴で結論はつけられませんが、メンバーこそ変われ、NYPの元気な音はまだまだ健在のようで、この伝統を変に撓めることなく続けて欲しいものです。ドイツ音楽やフランス音楽はともかく、彼らのアメリカ音楽の演奏は最高レベルですから。できればもっとCD録音が日本で紹介されれば嬉しいと思いました。


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 ・・・いま手元には他に・・・

   歌劇「魔笛」(モーツァルト)

     トスカニーニ指揮
      ウィーン・フィル(1937年ザルツブルク)

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●ファウスト、小泉/都響 曲が私好みではなく 2016.01.18.

 これも旧聞になりましたが、ファウストと小泉和裕/都響の演奏会の印象を少し。

 今や世界最高のヴァイオリニストとなったイザベル・ファウスト。私は以前にN響との演奏でプロコフィエフの第2協奏曲を聞いてその繊細さに驚愕したことがあり、注目しています。

 今日の曲目はしかし、メンデルスゾーンの協奏曲。メンデルスゾーンは名曲ではありますが、特に深い演奏を必要としない曲でもあり、私としてはファウストにとって曲が役不足だな、と思いました。

 演奏もしたがって、私としては特に感興は無いものとなりました。もちろんとびっきりに巧いし、繊細で考え抜かれた演奏ではありましたが。この曲で感動できるのは、ハイフェッツか五嶋みどりぐらいしか思い当たりません、残念ですが。

 後半はR.シュトラウスの「家庭交響曲」。小泉はこの曲を得意としているのでしょう。私は数年前も同じメンバーでこの曲を聞きました。演奏は精緻をきわめたもので、各パートの名人芸を楽しみながらも最終的には豪快にまとめあげていく音楽を聞かせてくれています。

 これも曲自体のもつ欠点なのですが、華麗な響きを聞かせてもらって恐縮ですが「それからどうしました?」と聞きたくなるようなもどかしさをいつも感じる曲です。作曲者の奥さんやお子さんを曲で詳細に描いたからどうだというのでしょうか。シュトラウスの名作がこの世にあふれている中で、特にこの曲を聞きたいとは私は思わないのです。

 死と変容、ドン・キホーテなどの交響詩、ばらの騎士を初めとするオペラの旋律、晩年の歌曲や協奏曲などたくさんの名曲を聴きたいものです。

 私は小泉のことを深く尊敬し、ベートーヴェンとブルックナーの演奏に関しては日本でも有数の指揮者だと思っていますが、この家庭交響曲への偏愛は首をかしげるところです。

 まったく個人的な感想で恐縮ですが、この日のコンサートは何とか足を運んだにも関わらず、やはり自分の好き嫌いを確認するだけに終わってしまいました。

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●名演 マーラー3番 デュトワ/N響 2016.01.18.

 かなり旧聞になってしましましたが、昨年末のN響定期から、デュトワ指揮のマーラーの交響曲第3番の感想を。

 マーラーブームになる以前から(40年ぐらい前から)、私はこの3番が一番好きでした。今では10番や大地の歌を好きな曲としてあげますが、若い頃はこの曲独特のたおやかさ、終楽章の長大なアダージョの浄化などが気に入ってました。

 N響でも何度か、この曲を聞きました。古くはノイマン指揮の演奏を気に入ってました。ノイマンは今では忘れ去られてますが、マーラー演奏に新風を吹き込んだ人で、当時濃厚な表情付けが必須と考えられていたマーラー演奏を、徹底的に直線的に明快な新古典主義で演奏してくれて、それはそれは目の覚めるような鮮やかさだったことを思い出します。近年ではそれほどすぐれた演奏は印象に残っていません。ミョンフン指揮N響はなかなか良い演奏でしたが、一番の名演とまではいえませんでした。

 さて、デュトワが指揮をするとN響はみちがえるように響きが良くなります。あらゆる汚れがとりのぞかれ、音が裸のように聞こえてくる、そうなってくるとこのオケがやはり世界的に優れたオケであることがくっきりと分かってきます。デュトワは若い頃はただ響きを作るだけの指揮者でした(だから私は軽蔑していました)が、この10年ほどは様々な意味で深まりを見せており、毎年12月にN響を指揮する、それがN響のいわば一年の立派な締めくくりとなるような名演を聞かせてくれるようになりました。今は私ももっとも注目し聞き逃さないようにしている指揮者です。数日前の「サロメ」も大変な名演でした。

 ただデュトワであれば何でも良いというわけではなく、ドイツ音楽はやはりいまひとつです。マーラー演奏も淡白なのが気に入りません。数年前の8番も何とつまらん演奏かと思いました。

 大好きなマーラー3番、注目しているがマーラー演奏は疑問視しているデュトワの指揮。結果はこれまた大変な名演となりました。

 第1楽章の錯綜した音符をデュトワが見事に整理してすっきりと聞かせてくれます。しかしそこに匂いたつようなロマンがありました。ここです。ここが以前のデュトワになかった深みです。このために第1楽章はパースペクティヴでありながら、夢見るようなロマンあふれる名演となりました。続く3つの間奏曲的な楽章も美しく、特に第3楽章のポストホルンは、聞けばトランペット奏者の代吹きだったそうですが、これまた完璧。私には以前聞いたバボラークの演奏より好ましく思いました。第4楽章のビルギット・レンメルトの独唱は深く好ましく、また第5楽章の東京音大女声合唱やNHK児童合唱団もさわやかでとても良いです。

 しかし、第1楽章よりもさらに圧巻だったのは、終楽章です。デュトワは私の気持ちより少し早めにテンポをとりましたが、弱音を生かした素晴らしく美しくうねるような響きを作り、この曲大好きな私をうならせてくれました。しかもその弱音が後半の壮大で荘厳なコーダを生み出す、その変化の美しいこと深いこと。N響の優れた弦楽器群の美しさ分厚さと、デュトワのセンスの素晴らしさが組み合わさって、稀に見る名演となりました。

 21世紀になってから、もっとも優れた3番の演奏だったと思います。非常に幸せな気持ちで帰途につきました。デュトワとN響のコンビに感謝しつつ。


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