June 16, 2017

⚫️最近に聞いたCDから 2017.06.16.

最近聞いたCDの雑感を少し。

⚫️交響曲第7番(マーラー)
2月に自分がマーラーの7番を弾いたので、しばらくは7番ばかり聞いていた時期がありました。
一番好きなのはテンシュテット指揮ロンドン・フィルの新しい方(ライヴ)。スタジオ録音も良かったのですが、癌をいったん克服して再起した後の演奏は、すべてにスケールが大きく、かつ慈しみが増して感じられます。
既に書いたショルティもまずまず。意外に丁寧にオケと心を通わせるのに感心しました。
クレンペラーは久しぶりに聞きましたが、面白いけれど怪演の部類ですね。
アバドの盤は新しいベルリン・フィルよりも、密度の濃い古いシカゴ響の方が好きです。ベルリン盤はオケの悪い癖(弾きすぎ・やりすぎ)が出ています。
バーンスタイン盤はやはり古いほうが好き。新しい方は綺麗だけどアゴーギクそのものに心が今ひとつ通わず。古いほうは荒っぽいけれど心が伝わってきます。
あと、CDとしてはあまり出回ってませんが、私の心の師である井上喜惟の盤は超絶に遅くて歌心満載の大好きな演奏です。


⚫️交響曲第10番(マーラー)クック版
ダウスゴー指揮シアトル響
クック版の10番が大好きな私。久しぶりの新盤としてガムゾウ盤(ガムゾウ編曲)とダウスゴー盤(クック版)が出ました。ガムゾウ盤はまだ消化できてないのですが、ダウスゴー盤は素晴らしい。終楽章があんなにも熱いなんて! 久しぶりに心が震えました。


⚫️歌劇「サムソンとデリラ」(サン=サーンス)全曲
プレートル指揮パリ・オペラ座管、ゴール、ヴィッカース他 1963年頃
今までバッカナールばかり聞いてきて、真面目にこのオペラ全曲を聞いたことがなかったことに気づき、遅ればせながら全曲を聞きました。地味ながらなんと豊かな音楽。とくに後半が良い。パリのオケは昔はこんなゆるくてしかも音がチャーミングだった(そこが好き)。今はパリ管も他の国のオケと変わらぬつまらないオケになってしまいましたが、このころのフランスのオケはなんとも言えず色っぽいですね。


⚫️ヴァイオリン協奏曲(ブラームス)
オイストラフ(vn)、クレンペラー指揮フランス国立放送管 1960年頃
オイストラフの極め付けの美しい音、クレンペラーのやる気に満ちた指揮、そして先述のフランスのオケの明るさ華やかさ! これこそとびっきりの名盤だと改めて思いました。


⚫️レクイエム(フォーレ)
小澤征爾指揮 ボストン響
長いこと小澤(そしてボストン響)の反対派だった私ですが、久しぶりに名演を1つ見つけました。このコンビの終わりの時期に録音されたレクイエムは、意外にも精神性の高い名演です。同時期に録音されたジュリーニ盤が駄演(彼にしては珍しい)のに対し、何という崇高な世界。小澤/ボストンとしては私には「グレの歌」に次ぐ良いものです。


⚫️交響曲第103番「太鼓連打」104番「ロンドン」
カラヤン指揮ベルリン・フィル
フルトヴェングラーの104番を聞いていたら悪酔いしてしまい、ハイドンはもう少し近代的で、しかもやる気のある演奏が聞きたいなとカラヤン盤を取り出しました。フルオケでの美の極致とはこのことですね。私はハイドンに関してはヨッフムとカラヤンが大好きです。最近の擬似古楽器風な演奏なんか耳にしたくもない、フルオケ派です。晩年にザロモンセットの録音を遺してくれたことに感謝。いつまでも聞いていたくなるカラヤンの名演たち。

⚫️交響曲第1番・第2番(エルガー)
バルビローリ指揮ハレ管弦楽団
久しぶりにバルビローリのエルガーと出会いました。中古盤での掘り出し物です。しかも1番は有名なフィルハーモニア管盤ではなく、その前に録音されたハレ管盤。これが最高に良い。気迫のこもった演奏でぐいぐいと進めてくれます。ハレ管の雑さを補って余りあるバルビローリの熱い熱いエルガーです。



⚫️交響曲第7番(ブルックナー)
テンシュテット指揮 ロンドン・フィル ライヴ
テンシュテットの正規盤のブルックナーは4番が名演、8番は駄演。しかしライヴの8番は最高に素晴らしい演奏。どうもムラがあるようですが、CDとしては唯一?遺されているこの7番の演奏はどうでしょう。
実はテンシュテットのブルックナーの中では最高の演奏です。この素晴らしさは、どう表現すればいいのでしょう。
試しに世評高いヴァント指揮ベルリン・フィルと聴き比べてみましたが、もう一目瞭然というか一聴瞭然。ヴァントがいつでも悠揚迫らず進んでいく、しかし表情や感情が乏しいのに対し、テンシュテットは冒頭からロマンが一杯。しかもこの曲でそれが嫌味にならず、すべてのロマンがぴしりと決まっていく快感。
ああ、何という名演。




・・・これから封を切る楽しみな演奏は・・・

大地の歌(マーラー)
カウフマン(歌)、ノット指揮ウィーン・フィル
カラスのヴェルディアリア集
カラス、レッシーニョ指揮パリ音楽院管
交響曲第2番(エルガー)
スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立響
ワーグナー集
ワルター指揮コロンビア響の
平林氏新リマスタリング ほか

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June 11, 2017

⚫️新進指揮者、太田弦 2017.06.11.

太田弦という新進の指揮者の指揮・指導を受けました。

推定20代前半ながら、すでに藝大在学中に東京国際コンクール指揮者部門で第2位という立派な実績を持つ方です。

指揮は流麗な姿。打点を明確にすることよりは音楽の流れを重視するスタイルと見受けました。小柄な体躯であどけない顔立ちながら、両手をいっぱいに広げてゆっくりと大きく振りかぶる腕は、オーケストラから柔らかくも大きな響きを産み出してくれます。

ウェーバーの「オイリアンテ」序曲は、速いテンポとアンダンテを巧みに使い分けながらも一気呵成な演奏で、このあまり知られていない序曲を魅力的に演奏してくれました。

ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死は、オーケストラを流麗にドライヴしながらも、前奏曲では徐々に迫り来る緊張感を、愛の死ではやがて解き放たれるべき宿命の浄化を先へ先へと期待させてくれる名演でした。

ブラームスの第3交響曲では美しい響きを大事にした演奏で、年齢に似合わずやや深い音楽を聞かせてくれたのが印象的でした。

決して通り一辺倒な流れではなく、目立たぬようにアゴーギクをつけて呼吸感のある演奏をするあたり、なかなかの名指揮者です。また楽譜をよく研究しており、原譜の複写版まで辿って作曲家の意図を汲もうとする姿勢にも好感が持てます。

私たち高年齢の者が接してきた指揮者の多くは、前世紀の習慣を引きずって高圧的な態度をとる場合が多かったのに対し、現代の若手指揮者はこの太田氏も含め、オケに対して実に丁寧に接してくれる方がほとんどです。嬉しくもあり面映ゆくもあります。時代が変わったものだとつくづく思います。

またメトロノームのようなテンポ設定をするのではなく、音楽に合わせて実に美しく呼吸してくれる指揮者が増えてきました。これも好ましいことです。太田氏もその代表格と言えるかもしれません。

太田弦氏、音楽に該博で指揮テクニックもあり、人品卑しからず丁寧で、柔らかいオケ本来の響きを美しく引き出してくれる、まさにミューズの子というのはこのような方を言うのだろうと思った次第です。

これからますます売れっ子になっていくことと思いますが、またご指導を仰ぎたいものだと思いました。



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May 22, 2017

●繊細さと壮大さに改めて感心 フェドセーエフ/N響のボロディン、チャイコ 2017.05.22.

 先週のN響定期は、ここのところ頻繁に訪れているロシアの老匠フェドセーエフ。前回のチャイコフスキーの1812年などでは唖然とするほどのアゴーギクをきかせた名演で、90歳近い人とは思えない生き生きとした演奏に感動したものです。

 今回は日本のオケ相手にしては珍しく交響曲のプログラム。グリンカの珍しい幻想曲「カマリンスカヤ」、ボロディンの第2交響曲、チャイコフスキーの第4交響曲というもの。チャイ4はうるさくて好きでない曲ですが、ボロディンは大好きな曲で楽しみです。

 グリンカのカマリンスカヤは非常に繊細なもの。N響の優秀な弦楽器群が、まるで1本の楽器で弾いているかのような美しい単旋律を何度も歌ってくれて、この曲のはかなさを伝えてくれます。この演奏で私は、「フェドセーエフという人は壮大なカンタービレだけが特徴かと思ったら、随分オケをていねいに作り上げる人なんだな」と感じました。

 続くボロディンの第2交響曲。これは好きな曲だけに、演奏を評価する基準が厳しくなります。いっぱんにプロの指揮者でも、この曲の力強さばかりを強調します。ところがこの曲は日曜作曲家ボロディン独特の、やや稚拙なオーケストレーションを持ち、それを普通に力強く演奏すると、トゥッティのアタックが汚くなりがちで演奏が興ざめしてしまいます。

 フェドセーエフの手にかかると、その強奏が実に美しく、曲本来の美しさがさらに引き立つ名演となりました。外人指揮者の名言として知られる「日本のオケは強く演奏すればするほど倍音の無い汚い音になる」というのを私はさもありなんと長く思っていますが(結局日本人のガンバリズムが曲理解を台無しにしている例です)、今日のボロディンの美しさと力強さのバランスは、やはり並みの指揮者でできることではありません。

 ここで私は、フェドセーエフを勘違いしていたことに気づきました。彼は私が若かった50年前からソ連のオケで活躍し、私はそのLPを聞きもせずに「壮大な音楽ばかりする指揮者なのだろうな」と漠然と思っていました。

 ところが50年にして始めて私が彼についてさとったのは、デュトワなみにオーケストラを微細にコントロールする人なのだということ。そうでなければこのような繊細なボロディンは生まれません。いつも彼の強烈なカンタービレに気をとられていたために、彼のオーケストラビルディングの見事さ繊細さに気がつかなかった私のあさはかさです。

 そんな意味もあって、今日のボロディンの真のクライマックスは、第4楽章ではなくメロディアスで美しく最後は力強かった第3楽章にあったと感じます。

 ・・・さて後半のチャイ4です。私はこの曲が強奏しすぎたときの汚さが大嫌いです。ためにめったに聞くことはないのですが、このようなフェドセーエフの演奏が汚いはずはありません。しかもボロディン以上に表現の幅を広く取ってきました。

  その最たる例は弱音の本当に美しく繊細な響きです。たとえば第1楽章の第2主題、バイオリンが痛切に蠢くところは聞かせどころですが、あえて彼は非常に小さな音で始めます。すると第1楽章のほとんどが小さめの音にならざるをえません。聴衆が耳をそばだてて熱心に聴くその10分後ぐらいから徐々に徐々に音を上げていき、クライマックスではろうろうと歌い上げる、こうなると弱音から強音までの幅がとてつもなく広がって、まるで聞いたこともないような巨大な大伽藍のような音楽に生まれ変わりました。

 これには私は唖然としました。もともと巨大な音楽ですが、それがさらに巨大化し、しかも繊細で美しいという二律背反的なすさまじさを聞かせてくれ、すっかり興奮してしまいました。

 2楽章の美しさ、4楽章の激烈さはもちろんのこと、私がもう一度びっくりしたのは第3楽章です。例のピチカートは多くの人に愛されている音楽ですが、ここをやはり普通の10分の1ぐらいの美弱音にしてしまったので、ホール全体がかすみがかったような不思議な音響に満たされました。もちろん大きく演奏するところは通常の音に戻しますが、その差の大きいこと。音楽が立体化すること。

 こんな個性的なチャイ4は初めて聞きました。チャイ4が好きになるとまではいきませんが、素晴らしく魅力的な演奏にすっかり感心させられました。

 フェドセーエフ、当たり前のことですが、私をうならせるほどの名匠でした。高齢が心配ですが、ますますN響に客演を増やしてほしいものです。

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May 14, 2017

⚫️N響2題/ ルイージのブラ4、スタインバーグのわが祖国 2017.05.14.

最近のN響の演奏会から2つを。

4月はファビオ・ルイージの指揮で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番とブラームスの交響曲第4番という王道の演奏会。独奏はラナというイタリアの新鋭の女流。

このラナという新人はなかなかの曲者で、爽やかなはずのベートーヴェンの第1協奏曲を爽やかに弾くように見せかけて、様々なトリックやさりげないロマン派風の味付けを隠していて、見事。これは大注目のピアニストです。すでにCDも2枚発売されているとのこと。これから熱心に聞いて見たいと思いました。

さてルイージのブラ4。私は二重の意味で危惧を抱いてました。まずはブラ4という選曲。もちろん名曲中の名曲でドイツロマン派最高の交響曲ですが、きちんと表現するのは至難の技。楽譜を音にしただけではブラームスの世界は描けない、典型的な例です。

次にルイージという人。私はルイージという指揮者にあまり好感を抱いていません。イタリア生まれの名指揮者ですが、私には音楽の流れを大事にせず強拍とインテンポのカンタービレばかり気にするトスカニーニの出来損ないのような印象でいました、どの曲を聴いてそう思ったのか忘れましたが、「グレイト」だったか、メトのニーベルングの指環だったか、とにかくいい印象はありません。

ところが今日のブラ4にはびっくり。強拍を重視せず、ゆったりとした流れを大事にした音楽。冒頭のテーマからして美がこぼれ落ちそうなゆっくりした宝石のような演奏で、すっかり感心させられました。ドイツ的というよりはイタリア的な演奏でしたが、細部まで考え抜かれてしかも流れの良い演奏で、これはこれで十分に満足できる演奏でした。ルイージという指揮者を見誤っていたのかもしれないと反省した一夜でした。




5月の最初の定期は、久しぶりに(本当に久しぶりに)ピンカス・スタインバーグの指揮です。スタインバーグは名指揮者ウィリアム・スタインバーグの息子です。父親の演奏ではブルックナーなどでお世話になりましたが、息子のほうは何を指揮しても水準以上だがこれといって印象が少ない何でも屋という印象があります。N響には何度も来ていますが、聞くのは本当に久しぶりです。

曲は「わが祖国」。指揮者の力量の差が出る曲です。面白く聞かせてくれるのか、問題の多いスメタナのオーケストレーションをうまくさばいてくれるのか、そういった意味です。

結論から言うと、これまた水準以上(立派な演奏でした)で、オケも十分に美しく力強く機能的で言うことはないのですが、この人ならではの魅力というには乏しかったかもしれません。

最近、アーノンクール指揮ウィーン・フィルの演奏のCDで「わが祖国」を何度も聴きました。流れの悪い演奏で、ウィーン・フィルの美音に助けられている演奏かとも思いますが、何よりアーノンクールの強靭な意志、すなわちスメタナの書いたものを徹底的に掘り起こして意味のあるものにしたいという欲求は伝わって来ました。嫌いなアーノンクールの研究のために聞いているCDですが、このような意味のはっきりしている演奏は確かに歓迎すべきものです。

スタインバーグの演奏は、良い演奏ではあります。あと一歩の個性が欲しかったかな、という気がしました。





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May 12, 2017

⚫️東京国際音楽祭プレ大会の高校オーケストラ 2017.05.12.

東京国際音楽祭プレ大会という催しがGW中にビッグサイトで行われました。東京近辺の優れた若者(アマチュア)の演奏演技を披露するというもので、来年からは同時期に定例化する大会であるとのことです。招待されて行き、特に興味のある高校オケの演奏を聞いて来ました。

千葉県立千葉女子高校オーケストラ部。初日のオープニングを飾る舞台でした。フィンランディア、くるみ割り人形から、サムソンとデリラのバッカナールという名曲揃いの演奏です。このオーケストラはいついかなる時いかなる曲でも高度な技術と絶妙のバランスを聞かせてくれます。音楽は決して力ずくにならず、しっとりとした響と美しいハーモニーが特徴の優れた演奏でした。くるみ割りでは有名な「花のワルツ」ではなく私の好きな「パドゥドゥ」で締めくくってくれたのが嬉しかったです。

千葉県立幕張総合高校シンフォニックオーケストラ。やはり初日の演奏でした。120名を超えるらしい大所帯。最初に管楽器総動員でジャズのビッグバンド。続いて弦を入れてのエニグマ演奏曲の第9変奏、千と千尋の神隠し、吹奏楽の曲から3つのジャポニズム。このオーケストラは強靭で正確な表現が魅力で、その技術は大変高度なものです。オケ好きの私としては、もう少しヨーロッパの音楽が聴きたかったと思いました。

関東学院中学高校オーケストラ部は2日めの演奏でした。ここも大所帯で有名です。高3が引退したばかりの低学年だけで演奏したとのことですが、ベートーヴェンの「運命」交響曲を全曲聞かせてくれるなんて、夢のようです。情熱あふれる若人の良さが出た演奏で、すっかり感心させられました。このように技術をアピールするよりも「熱い」音楽を聞かせてくれる若者オーケストラが好きです。

この音楽祭ではありませんでしたが、これも最近、森村学園中学高校オーケストラ部の演奏で、チャイコフスキーの交響曲第1番「冬の日の幻想」を全曲聴きました。私の大好きな曲であり、非常に丁寧で考え抜かれた演奏にびっくりすると同時に、感動もしました。日本の若人の音楽が、従来の紋切り型の型にはまった演奏ではなく、ヨーロッパ風の人間性、ヒューマニティを豊かに出した演奏が増えて来たことに明るい未来を感じます。

音楽後進国としてアメリカ風の浅薄な演奏が多かった日本ですが、最近はやっと世界に誇れるような、音楽性豊かな演奏が増えて来たなと、東京のオーケストラ界や若人のオーケストラを聞いて嬉しいこの頃です。

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March 06, 2017

⚫️指揮者ミルガ・グラジニーテ・ティーラ 2017.03.06.

ミルガ・グラジニーテ=ティーラ。この名前を見てピンとくる人は、相当にオーケストラ界に通な方でしょう。かくいう私も数日前までまったく知らなかったのですから。

だいたいこのカタカナ表記にしても、正しいのかどうか分かりません。本名を表記通りに書きたいのですが、リトアニア出身とのことで英語のアルファベットで表せない文字が含まれています。まあそこをおして英語で書くとすると

Mirga Grazinyte–Tyla

だそうです。先述のようにリトアニア出身。1986年生まれ。リトアニアを出てグラーツ音楽大学で学び、ネスレ・ザルツブルグ指揮者コンクールなどで優勝。今はロサンジェルス・フィル(LAPO)の副指揮者、そしてザルツブルグ州立劇場(SLT)指揮者です。そう、指揮者の卵です。SLTでは既にボエームなどを指揮しているようです。

そして2つの驚くべきニュースがこの人を有名にしました。

1つめ。この人はうら若い女性指揮者であること。まあしかしこれは昨今珍しくなくなりました。日本でも欧米でも、女性指揮者は花盛りです。

2つめ。これがすごい。昨年2月、当時29歳の彼女は、バーミンガム市交響楽団(CBSO)の音楽監督に選ばれたこと。

そして私は個人的な理由で3つめをあげます。素晴らしくチャーミングな指揮者であること、です。

数日前に見た、音楽雑誌の彼女の指揮姿の写真は衝撃的でした。黒ジャケットに黒パンツ、両手を精一杯広げて第1バイオリンの方をにっこり微笑む姿は、これまで見たどの女性指揮者よりもすてきな笑顔でした。シモーネ・ヤングやマリン・オールソップのような実力派の指揮者は当然のことながら怖い顔をしていますし、昨年東フィルに現れたアヌ・タリは、チャーミングなというよりはセクシーな指揮者です。そんな先輩たちの大人の女性の魅力を押しのけて、グラジニーテ=ティーラは、田舎から出てきたひまわり娘が、まだ世の中と戦う前のはつらつとした少女のような素朴な美しさに満ち溢れています。

顔写真だけですっかりファンになってしまった私は、CDはないのか、動画はないのかとネットを探したら、わずかに動画がありました。LAPOのアンサンブルを指揮したと思しきアルルの女の一部の演奏、そしてCBSOの公式ホームページからは、昨年のイギリスのプロムスで指揮したチャイコフスキーの交響曲第4番のコーダの画像が出ています。これがまた、それほど巧くはないけれど的確で優雅な指揮で、見ていて引き込まれます。

あれ、プロムスって最近NHKが放映しなかったかな、と未見のTV録画したリストを探してみると、ありましたありました。2月27日放送の番組の中で、そのプロムスの交響曲第4番の全曲の映像が録画されていました。素晴らしい偶然。すぐに食い入るように見ました。

なんという自信に溢れた指揮。なんというチャーミングさ。今までの女性指揮者が男性に負けまいと頑張ってきたのが嘘のような、女性の魅力を満開させた指揮ぶりに、高齢の男性の私は目がくらくらしてしまいました。チャイ4は金管楽器とオーボエがしっかりしていれば、そこそこのオケなら満足できる演奏になるわけで、彼女の実力を測れるほどの曲ではありませんが、それでもこの大曲をニコニコと指揮する彼女に、ふだん難しいことを言う私もすっかり幻惑されてしまいました。

・・・ 衝撃的でした。新しい時代が来ました!



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March 01, 2017

⚫️久しぶりにショルティ/シカゴ響のマーラー、再び(CD) 2017.03.01.

ショルティ指揮シカゴ交響楽団(以下、CSO)の、マーラーの交響曲全集CDを中古で安く入手しました。実はショルティのマーラー(晩年のコンセルトヘボウやチューリヒなどのライヴ録音は除く)は、すべてLPレコードで持っていますし、今でもLPは再生できるので、わざわざ音の悪い?CDで買わなくても良かったのですが、スイッチ1つで再生できるCDの便利さにはかなわず、思わず買って少しづつ聞いています。

私は若い頃は筋金入りのショルティ・ファンでした。そもそも初めて自分のお小遣いで買ったクラシックのLPのひとつが、前年にレコード・アカデミー賞を受賞したばかりの「ツァラトゥストラはかく語りき」だったのですが、この曲はまったく知らなかったものの、ショルティとCSOの強烈無比な演奏にすっかり惚れ込んでしまい、おかげで50年近く続くクラシック音楽との付き合いが始まったとも言えるからです。

以後、つとめてショルティのLPを少しづつ集めることを始めました。当時はショルティ全盛期で、続々と新譜も発売されていましたし、膨大な旧譜も存在していましたから、コレクションを続けるにはうってつけの人でした。マーラーの交響曲もロンドン響、コンセルトヘボウ管との混合での全集がすでに発売されており、それらを1枚1枚買い揃えることは若い私には財政的には苦しいものの、大きな喜びをもたらしてくれることでした。

その頃ショルティのベートーヴェンの全集が完成し、数年後にはブラームスの全集もできました。チャイコフスキーの後期交響曲集、ハイドンのザロモンセット(オケはLPO)、完成までにすごく長い時間のかかったブルックナーの交響曲全集、そして完成が何より待たれたシカゴ響とのマーラー1、2、3、4、9番の録り直しがようやく終わって最新のデジタル録音でそれら(つまり今回入手した全集です)を聞けた時の喜びは何ものにも換えがたいものでした。

ショルティのシャープな感性と世界最高の合奏力と言われたCSOのコンビは、1970年代後半〜1980年代前半にかけて、カラヤン指揮ベルリン・フィルと並んで世界を二分する人気と実力のあるコンビでした。私も10数年間ほど、その魅力にぞっこん参っていました。

しかし得てしてこうしたものでしょうか、あまりにもたくさん長い間聞いていると、その欠点も見えてきたり、同時に自分の感性が深まってきて他のタイプの演奏が好きになったりしたので、ショルティの死後ここ20数年ほどは意識的に彼らの演奏をさけてきたものでした。完璧すぎて味わいに欠けるような気がしてきたからです。

自分も老境に入り、もしかしたら新しい見方聞き方ができるかもしれない、そう思いなおして、今年に入ってからショルティの演奏を少し聞き始めたところです。

さて、新しく入手し直したマーラー全集、いずれも演奏は知ったものばかりですが、とりあえず発売当時大人気だった8番を聞いてみました。当時私はこの8番の演奏にとても批判的でした。音がクリアで大きいばかりで、中身がないような気がしたからです。しかし今あらためて聞いてみると、第2部の静かな部分からゆっくりと階段を上がってクライマックスに達するような設計の見事さに感心させられます。それにウィーン少年合唱団の素晴らしい合唱に感謝。

続いてやはり批判的だった7番。これは金管と打楽器がやたらにうるさい演奏で辟易した覚えがありますが、今聞いてみると、そんなに刺激的ではなく、むしろ当時は物足りなく思ったこの曲のロマンチシズムが濃厚に出ていて、悪くない演奏だなあと感心しました。こちらも40年経って、耳に(解釈の受け入れに)変化があったせいでもありましょう。

私はロンドン響とのマーラー(1、2、3、9番)も嫌いではなく、特に2番と3番はロンドン響の方がひなびていて好きです。4番も古いコンセルトヘボウの演奏が好き。しかしこの全集をこれから聞いていくうちに、CSOとの新しい魅力に気がつくのではないかと、今から続きを聞くのが楽しみです。

ちなみに私の考えるショルティ指揮CSOの名盤は、マーラーでいえば6番と大地の歌(どちらも透明感の中にさやけくような情感がにじみ出て名演です)、他にはマタイ受難曲、メサイア、ドイツ・レクイエムといったドイツの基本的な合唱大作がなんとも素晴らしい。私はマタイはショルティを第一にオススメしています。ブルックナーで選ぶなら6番。ブラームス交響曲は4曲どれも最高。

どれか1枚を、と言われれば、世の中にまったく忘れられた存在ですが、メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」が最高に素晴らしいですね。知情意のバランスがここまできちんととれた美しい演奏は、彼らにしても一期一会ではなかったかと察します。

死後、四半世紀以上たちました。私のショルティへの好き嫌いも若い時の狂躁的から、おだやかな受容へと変化しつつあるようです。

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February 19, 2017

⚫️稀代の名演に ショスタコーヴィチ10番 パーヴォ指揮N響 2017.02.19.

過日のN響は、常任指揮者パーヴォ・ヤルヴィでシベリウスのバイオリン協奏曲(ソロは諏訪内晶子)と、ショスタコーヴィチの交響曲第10番という重厚なもの。

諏訪内のファンではないのに、よく聴く機会に恵まれます。昨年は確かチャイコフスキーの協奏曲をテミルカーノフ指揮サンクト・ペテルブルクフィルで聞きましたが、別項で書いたように非公開の演奏会だったせいかオケにやる気が全く無く汚い音で、諏訪内も苦労しているように感じました。

今日の諏訪内はそんなこともないはず、何と言っても指揮は今をときめくやる気100%のパーヴォですから。

もっとも別の意味で苦労したような形跡もあります。シベリウスの協奏曲はもともと諏訪内が得意としていた曲のはず。彼女は美音をたっぷりと歌うのが特徴だと私は思っていますが、パーヴォのある意味で前衛的な音楽づくりでは、そのようなたおやかさを生かしてくれない部分が多々あるように思いました。パーヴォは振り返ることなく前へ進むことが好きな感じですから。

それでもさすがは一流のプロです。そのような苦労をあまり見せもせず、パーヴォに従ってぐいぐいと進む彼女は、また別の凛々しさも感じて爽快です。彼らの苦労がもっとも生きた?のが快速なテンポで進んだ第2楽章の清冽で強靭な美しさではなかったでしょうか。

私は諏訪内のファンではないと書きました。確かに今日の演奏、シベリウスは若干の違和感あり、またアンコールのバッハは世評に反して私には軽すぎる演奏に思えました。日本人で言えば私の好きなバイオリニストはまずは五嶋みどり、それから庄司紗矢香です。あまりメジャーではないけれど佐藤俊介も素晴らしい。

しかしそんなことを言っても、やはり諏訪内は日本を代表するバイオリニストだな、と思います。その容姿の素晴らしさ(私は最近は演奏家としての容姿も大事だと思います)、私が望むほどではないけれどそこそこに深い音、いつも美音を聞かせてくれる1980年代風の様式(ここがもっとも好きです)。パーヴォとの感性の違いが気にはなったけれどでもそれは協奏曲なら当たり前のこと。改めて彼女に惚れ直した一夜でした。

後半のショスタコーヴィチは、何から書けばいいのか、ちょっと迷います。

  この曲は決して嫌いではありません。先日の井上の12番に若干シラけたことを考えれば、曲は12番などよりずっと優れているし、しかし私が好きな9番や15番のようなあからさまに軽妙なアイロニーというほども無く。結局力ずくの演奏が多いことがこの曲への私の評価を難しくしているのかもしれません。

書きそびれましたが、12月の都響の定期はヤクブ・フルシャ指揮のこの曲でした。フルシャは2年前にウィーン国立歌劇場へのデビューと重なった結果、都響をすっぽかした穴埋めとして、この大曲をひっさげて再登場し、華麗な演奏でお客を心酔させました。でもその時も私は、フルシャのはすごく精密で華麗な演奏なんだけれど、何だか心からの共感が得られないなあと思いました。それは後述する二面性がなかったからだと今では分かります。

さて、パーヴォ論です。パーヴォについてはこの稿でたくさん書いてきました。マーラーの巨人で衝撃的な演奏をしたこと。表情付けが繊細で新鮮なこと、音楽に円運動のような自然な緩急をつけて素晴らしいこと、ために筋肉質でありながら強靭なカンタービレが美しいこと、など。

しかしマイナス面も見えてきたことも示唆しました。パーヴォのマーラーの2、3、8番がいずれもやや期待外れに終わったこと、それは私が音楽に求める「祈り」が少なくて、肉感的なままのマーラーで終わったことなどが、若干の危惧を感じさせたからです。

まあまだ50代の指揮者に祈りなどを求めてはいけないのかもしれません。そのような危惧もありながらも、いま東京で活躍する指揮者の中ではとびきり優秀な人であることは間違いありません。

ショスタコーヴィチの第10交響曲に何を求めるべきなのでしょうか。祈りでしょうか。たぶん祈りは必要でしょう。スターリンの圧政への批判をうまくくるんで体制賛歌のように書いた曲に、祈りが不必要なはずはありません。

では内省的であればいいのでしょうか。いや、そういう訳でもないと思います。ショスタコーヴィチが不必要なぐらいに書いた音の洪水は、体制賛歌のためだけではなく、抑圧された人間性の爆発として必要だったはずですから。

ということは、演奏としては音の洪水と爆発を誘いながら、その真意は祈りにある、というような、如何にもショスタコーヴィチらしい二面性と皮肉を含んだ演奏こそ素敵だといえます。

長くなりました。まずはパーヴォの演奏は、とびっきり美しかったことをご報告します。あらゆる楽器が最上の響きを奏でました。

そして爆発のすごさ。私は長いことN響の会員でいながら、このようなすさまじい終楽章の爆発を聞いたことがありません。それは単に音量とかではなく、楽員全員が火の玉のように突進していくのをまざまざと見てしまったからです。ここまで本気になれるN響は初めて見ました。

もちろんそこに至るまでのパーヴォの周到な設計も生きています。いつものように様々な表情付けを行いながら、得意な円運動を強烈に聞かせ、管楽器のソロや、特にチェロとビオラのsoliでトスカニーニばりのすさまじいカンタービレを聞かせ(私はここがパーヴォの武器だと新しく感じました)、聴衆を唸らせました。

その結果、マーラーでは得られなかった充実感が押し寄せてきました。祈りの少ないマーラーとはうらはらに、強烈な音響が支配する中に祈りが見え隠れするような、理想的なショスタコーヴィチが現出したのです。

そして今日のN響は、迫力だけでなく、音の美しさも抜群でした。この曲をヨーロッパに持っていくそうですが、今日の演奏を凌駕できるのは、もはやベルリン・フィル、ウィーン・フィル、アムステルダムコンセルトヘボウの3大オケぐらいでしょう。どこをとっても充実しており、まったく文句のつけようがありませんでした。決してお世辞ではなく、長く日本のオケを聞いてきたものとしての実感です。

前にも書きましたが、今の在京オケは世界中でももっとも刺激的なオーケストラワールドになっています。その中でも、今日のパーヴォとN響のショスタコーヴィチ10番は、長らく語り続けられるような、そんな名演になったと思います。これを聞けたことは、私の生涯のまたひとつの嬉しい記念となったことをここに正直に書き留めておきます。

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February 01, 2017

⚫️小泉和裕のグラズノフ、ブルックナー 2017.02.01.

小泉和裕という指揮者は、正統派です。何を振らせても、ごくまっとうな音楽が出てきます。

私は40年ぐらい前、彼の演奏をテレビで見たことがありました。確かテレビの企画として、若い俊英の小泉に難曲のダフニスとクロエを指揮してもらう、といった内容だったと思います。

当時の記憶としては何だかひょろひょろして愛想笑いして、軽い指揮者だなあと思ったものでしたが、当時の若さでは軽いのもやむを得ないし、社会にこれから打って出る者としては愛想笑いも必要だったでしょう。

今の小泉を軽いと評する人は居ないでしょう。むしろ日本人指揮者としてはもっとも重厚な人に数えられるようになりました。朝比奈隆亡き後は、ベートーヴェンとブルックナーの正統的な解釈者として並ぶもののいない高みに達しています。

最近の都響の定期の後半(前半は遅刻で聞けませんでした)で、彼の指揮するグラズノフの交響曲第5番を聞きました。これが意外にも名演ですっかり感心してしまいました。

意外にもと書いたのは、小泉のレパートリーは決して広い方ではないと思う中で、私がいまひとつだなと思うのがR.シュトラウスだからです。小泉はもちろん正統的に聞かせてくれるのですが、残念ながら色彩感が乏しく、重厚ではあるけれど彼独特の匂いたつような高揚感が少ないのが残念で、おそらくスラヴの音楽もそうなのではないかと疑ったからです。

しかし意に反して、なかなかに華やかな終楽章を聞かせてくれました。がっちりとした構成の中に管打楽器の花をたくさんに咲かせてくれて、聞きごたえがありました。

小泉といえば忘れてはいけないのが、ブルックナーです。以前、都響との演奏で2番や3番を聞き、初期の曲ながらその確かな足取りと敬虔さに感心したものです。おそらく後期の作品もさぞや崇高なものになるだろうと思いつつ、まだ演奏を聴く機会に恵まれません。

都響ではなく大阪センチュリー交響楽団(現在の日本センチュリー交響楽団)と録音したブルックナーの4・5・6番のCDを入手しました。有名さからいえば4番か5番を聞きたくなるところですが、小泉に似合うのは6番かな、と思い6番から聞き始めました。

当たりです。小泉の魅力の1つに、おそらく師匠のカラヤンの直伝と思われる旋律線を長く美しく伸ばすという美点がありますが、ブルックナー6番という線の音楽の美しさをここまで嫋嫋と長く歌ってくれる人は、もはやこの世界に小泉一人だけだともいえましょう。それぐらいに長い長い美しさです。

それでいて、小泉の音楽は決して不条理な美しさにはならず、いつも凛とした清潔な美しさに包まれていることが大きな魅力です。

このような美しいCDを聴くと、小泉にはもっとたくさん録音をしてほしいものだと思います。生で聴くのもいい指揮者であり、CDでも良さがひきたつ、稀有な指揮者です。


・・・いま聴いているのは他に・・・
交響曲第4番、大地の歌(マーラー)
パウル・クレツキ指揮
フィルハーモニア管弦楽団
(1960年ごろのスタジオ録音)

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January 01, 2017

⚫️2016年のオーケストラ鑑賞を振り返って 2017.01.01.

2016年のオーケストラの演奏会並びにCDを、書かなかったことを中心に振り返ってみます。忙しくてこの欄になかなか書けず残念な思いをしたことばかりです。

⚫️マーラー交響曲第8番「千人の交響曲」に演奏参加して(2月)
この項は既に書いたのですが、やはり想像を超える大変な出来事でしたし私には2016年を代表する出来事だったように思います。

自分が弾いてみて判ったのですがこの曲は実に細かくオーケストレーションされているにも関わらずその良さは表面に出て来ず、結果としてはオーケストラの性能そのものよりも声楽の出来がすべてだなと改めて感じました。指揮者の井上喜惟先生と合唱団の皆さん声楽家の皆さんに感謝する次第です。

⚫️テミルカーノフ/サンクトペテルブルグ・フィル(演奏会)(5月)
非公開の演奏会だったので、皆さんがご存知のショスタコの5番や7番といった曲たちではなく、正規の日本公演には無い「悲愴」でしたが、これが何とも悲惨な出来映えで、耳を疑いました。

おそらく練習も無しでやっつけ仕事だったのでしょうが、オケの縦の線はずれまくりで、これがあのムラヴィンスキーのオケだったのか?と思わせるようなひどさでした。

外国のオケはよくこのようなやる気のない演奏に出会います。強烈に覚えているところでは、昔のパリ管やモンテカルロ・フィルのようなラテン系のオケが目立ちます。ウィーン・フィルだって過去には指揮者によっては、???な演奏を何度もしたのを覚えています。したがって私は外来オケのありがたみはあまり信じないタイプです(笑)。


⚫️ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団(CD)(9月)
ウィーンによくいた頃はウィーン・フィルを聞く機会は滅多に来ず(券が入手しにくいため)、代わりにウィーン交響楽団かトーンキュンストラー管弦楽団をよく聞いたものでした。実は2つのオケともになかなか雰囲気の良いオケで、私はけっこう好きです。もちろん独特の甘い音色は無いのですが、普通の曲を普通に聞く分には不満のないオケたちです。

トーンキュンストラー管弦楽団は正式にはニーダーエステライヒ州トーンキュンストラー管弦楽団といって、ウィーン在住のオケではなく近隣州専属のオケですが、まあ楽友協会でも頻繁に演奏しているし、ウィーンのオケといってもいいでしょう。

意外にも佐渡裕を常任指揮者に迎えたので日本での知名度が一気にアップしましたが、私は正直なところ佐渡の音楽があまり好きでないです。師匠のバーンスタインの悪いところばかりを真似したような音楽のデフォルメが気に入らず、フランス近代の音楽なら多少はましだがドイツ音楽だけはやってほしくない、私にとってはそんな指揮者です。

ところが今回発売になったR.シュトラウスの「英雄の生涯」は、分厚い響の王様相撲で、このオケの決して豊かではない機能を最大限に活かしての名演となりました。私の知らない間に佐渡も大家への道を歩み始めたのでしょうか。今年もっとも驚いた新譜です。

⚫️大野和士/東京都交響楽団(演奏会)(11月)
都響は音楽監督がインバルから大野和士に交代してから、その高度な機能性がどう変わるのかが私の密かな興味です。今回の曲はメインがマーラーの4番。インバルの4番の記憶も新しいので、比較がし易い曲です。

最初の鈴の音が始まってからしばらくして、「ああ、やはりインバルほどには精密では無いのね」と思った私です。別に下手では無いけれど、インバルがどこまでも求めた透徹さというものは感じない演奏です。ここ10年ほどは東京の楽壇はマーラーといえばインバルを意識していたので、ついついそう思ってしまうのかもしれません。

ところが第2楽章、第3楽章と聞き続けるうちに、妙なことに気づきます。これは私がすごく好きなタイプの4番では無いかもしれない、私がかつて愛したアバド指揮ウィーン・フィルのような演奏では無いのだけれど、どこか聞いたことのある懐かしさを伴っている、何だろうこれは。

テンポが極端に速いわけでも遅いわけでもなく、極度に鋭角的でもなくかといって必要以上に牧歌的でもなく、しかし全体に流れるのはかすかに零れ落ちてくるような温かい気持ち、ヒューマニティ。

思い出しました。これはブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルの演奏に似ている。あの猛々しいオーケストラを必要最小限に操りながら温かい音楽を紡いだ、あのレコード演奏です。あの演奏を私は長いこと理解できないでいたけれど、齢50を過ぎたあたりからワルターのさりげない愛に気づき始め、今ではもっとも尊敬する演奏となりました。

大野の演奏スタイルがそれに似ているからといって、すぐに何かを結論づけることではないのですが、少なくとも私はヨーロッパから帰ってきた大野の演奏が、最終的にはいつも「人間愛」に満ちていると思うのです。ちょうど尾高忠明がイギリスから戻ってきた時のように。


⚫️山田和樹/日本フィルハーモニー交響楽団(CD)(11月)
山田の指揮で何度も演奏したことのある私は、当然のことながら彼のファンの一人でもあります。彼の柔らかで清明な感性が私たちの心を潤してくれることが多いものです。最近の彼は八面六臂の活躍で、もはや声もかけられないほどの大物になってしまいましたが。

しかしこのCDは、残念ながらあまり出来が良く無いといえます。オーケストラの機能は十分です。かつて機能不足に苦しんだオケとは思えないほど素晴らしいといえます。しかしマーラーの6番はもちろん機能だけでも語れないし、前項のような愛だけで何とかなる曲でもないでしょう。

私が今回不満に思った最大の理由は、私たちが愛する山田の柔らかな感性とは、意外にもドイツ音楽に合わないのでは、と危惧を抱いたからです。ドイツ音楽に必要な粘りが希薄なマーラーとなっています。

もちろん粘りのないドイツ音楽だってあるはず、かもしれません。でももしそうだとしたら、5音階の無い日本音楽と同じように、無国籍な環境音楽になってしまいかねません。

もう少し彼の音楽を気長に待ってみたいと思います。時間は彼にはあります。私には少ないのかもしれませんが。


以下は12月のできごと。稿を改めて書いてみます。
⚫️指揮者ボストックとの音楽づくり
⚫️フルシャ/東京都交響楽団(演奏会)
⚫️デュトワ/N響の凄さ(演奏会)

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December 21, 2016

⚫️マリナーのメタモルフォーゼンに逝去を思う(CD)2016.12.21.

名指揮者ネヴィル・マリナーが逝去しました。92歳とか。大往生といえばその通りですが、来年には来日も予定されていただけにその死が惜しまれてなりません。

マリナーといえば私のような高年者には、1970年代に奇跡のようにたくさんの録音を出し続けた驚異の人、というイメージがあります。

当時はレコード(録音)の多さといえばカラヤンが絶頂期で、1年に数枚は新譜が出るというおそろしい時代でしたが、実はマリナーもそれに匹敵するほどたくさん録音し発売していたのです。

その後半生はフルオーケストラの指揮者として活躍しましたが、私たちにとってはマリナーは「アカデミー室内管弦楽団」の指揮者であり、比較的小編成のオケの音楽の専門家、もう少し突っ込めばバロックと古典派の専門家、イギリス音楽とロマン派の小編成の音楽もたまにやる、といった存在でした。

そんなマリナーの得意中の得意はヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルトでした。しかし後年、このイメージは払拭されますが私にとっては刺激の少ない音楽を綺麗に聞かせる指揮者でした。

マリナーがフルオケで勝負に出たのは、1980年ころだったか、コンセルトヘボウと録音した「惑星」でしたが、良い演奏だったにもかかわらずマリナー=小編成という図式が出来上がっていて、後年の音楽が話題になりにくかったのは彼にとって残念なことだったかもしれません。私も実はそれ以後のことはほとんど知りません。

私がマリナーを再評価したのは近年N響と演奏したブラームスの4番、ドヴォルザークの7、8番、そしてブラームスの1番でした。しかしこのことはいずれ書きたいと思います。

さてマリナーを追悼するために入手したのは、「マリナー アーゴ・イヤーズ」という28枚組のCD。これは懐かしい1960年代1970年代の、アカデミー室内管弦楽団とのレコードを収めたもの。アーゴというのは当時活躍していたレコード会社です。

先述のヴィヴァルディからモーツァルトまでの主要な録音が入っていて目がくらくらするような魅力あるセットですが、あまのじゃくな私ですから、そうでないレパートリーのものから先に聞いてみようと思います。

探して見ると、意外にあるものです。チャイコフスキーとドヴォルザークの弦楽セレナード、エルガーとならんで絶品の演奏です。フランス音楽集、主にラヴェルとドビュッシーも品の良さがいいですね。北欧音楽集、メンデルスゾーンの3番・4番なども美の極致で、カラヤンに匹敵する洗練を感じます。

そんな中で異彩を放つのが「メタモルフォーゼン」「ジークフリート牧歌」「淨夜」をおさめた1枚。このようなレパートリーがあったとは知らず、物珍しさから聞いてみました。

1曲めの23独奏弦楽器のための「メタモルフォーゼン」は、あまり多く演奏されるものではありません。ドイツの敗戦色の濃い時代、R.シュトラウスが生まれ育った祖国を悼んで書いたとされる重い音楽です。初演は確かフルトヴェングラーの指揮でしたが、受け継いだカラヤンが得意とし、確か3度も録音したものです。カラヤンにしてから重い重い演奏でした。私はそれが好きです。

ところがマリナーが演奏すると、テンポが速い訳でもないのに、演奏が実にエネルギッシュで爽やかさすら感じます。ドイツというくびきを取り去った豪快な純音楽というべき演奏になっています。そしてこれもなかなかに魅力的です。いや、私はこのような生理的な快感のするメタモルフォーゼンには初めて出会いました。

なんなのだろう、この魅力は。しばらく考えながらも引き続き「ジークフリート牧歌」「淨夜」を聞いているうちに、ひとつの結論が出てきました。

それは第1バイオリンの旋律の歌わせ方です。この3曲に共通するのはドイツ的なピラミッドのような音響体ではなく、第2バイオリンとビオラとチェロバスはピラミッドを作りますが、第1バイオリンだけはその中にまったくあてはまらないということです。

華麗な歌わせ方、ポルタメントの使用など、往年の独奏家が好むような演奏を第1バイオリンだけが行います。その結果、3曲とも重心の上がった華麗な演奏になりました。これがマリナーの魔術のひとつなのだな、と思いました。現代の人でこのことができる人は少ないです(もっとも最近は色々な演奏を試す人が出てきましたので楽しみですが)。

マリナーが愛されたのは、刺激の均一な中庸な音楽をいつも提供してくれたからでもありますが、実はそのためにこのような隠し味を使っていたのだとも思い当たりました。

もちろん彼の得意はこのことだけに限りませんし、実はメタモルフォーゼンに驚いたほどにはジークフリート牧歌や淨夜には感心しませんでしたので、効果は半々かもしれません。

若い頃はベームとカラヤンばかり追いかけていてあまり深く考えていなかった私のマリナー観でしたが、今こうしてじっくり聞いて見ると、意外に奥の深い芸術がありそうです。もう少し考えて見たいと思います。



・・・今、手元にあるのは・・
ブラームス交響曲全集
アーノンクール指揮ベルリン・フィル


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November 30, 2016

⚫️華麗なショスタコ12番 井上/N響 2016.11.30

少し旧聞になりましたが、N響定期としては大変珍しい、ショスタコーヴィチだけで組まれた演奏会の感想を少し。指揮はショスタコーヴィチの演奏で近年名を挙げた井上道義。定期への登場は37年ぶりとのこと。

人気のある曲を集めたというわけではなさそうで、むしろ知られていない作品や問題作を集めた感じです。

1曲目は「ロシアとキルギスの民謡による序曲」。聞いたことのない曲です。何かの機会音楽らしく、聴きやすくて大音量で、聴衆の受けは良さそうです。もっとも私はショスタコーヴィチというと何らかのアイロニーが入っているはずと身構えてしまうので 、楽しめず。ボロディンなら楽しめるのだけれど。

2曲めはピアノ協奏曲第1番。ソロはアレクセイ・ヴォロディン。トランペットソロはN響の菊本氏。通に好まれる曲です。ヴォロディンと菊本の掛け合いが見事で、緊張感あふれる演奏が素晴らしい。 音量もほどよく、この日もっとも美しかった演奏でした。

メインは交響曲第12番「1917年」。レーニン讃歌とも反レーニンとも言われる、評価の分かれる曲ですが、めったに聞くことがないので、良い機会とばかりにじっくりと聞かせていただきました。

例のレーニン讃歌と言われる堂々たるテーマが全曲を貫いており、いささかも弛緩することはありません。弛緩することが無いというのは良い意味ばかりではありません。5番から10番までの交響曲に共通に表れる悲壮感やペシミズムはほとんど出てこない、そんな意味での弛緩することが無いということです。

この曲は大音量です。オーケストレーションの素晴らしさもあります。各楽章に表題もあり分かりやすく、何より肯定的なテーマが常に鳴り響いているので、誤解をおそれずに言えば「楽しい曲」です。でもショスタコーヴィチを聞くのに、楽しさは必要なのでしょうか。ベートーヴェンだって然り。「三重協奏曲」という楽しい曲がありますが、誰も聴きたがらないし演奏したがらないです。やはり名作曲家に求めたいのは人生の苦難を克服する力強さと表裏一体の哀しみみたいなものです。残念ながら私には交響曲第12番の中にそれは感じ取れませんでした。

かといって、このような曲を否定するものではありません。オーケストレーションの華麗さだけでも、特に若い人に向いた音楽だと思います。

堂々としたテーマが、井上の手になると、ますます堂々として聞こえます。N響も好調。黒々としたソ連風の響になりました。指揮者に順応する能力は本当に素晴らしいと思います。

私としては、このコンビに7番や9番といった曲を演奏してもらいたい気がします。あと15番も。アイロニーのある曲をどのように料理するのでしょうか。この日の曲は「どうだ、こんな曲だってあるんだぞ」的なやや意地っ張りな紹介に終わった気がしますので。井上/N響/ショスタコーヴィチの真価を問うのは別の機会にしましょう。

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October 23, 2016

⚫️とんでもない名演たちでした ヴェデルニコフ/N響 2016.10.23.

ヴェデルニコフという指揮者はボリショイ劇場の監督とのことで、おそらく現在のロシアでは確固たる地位を築いているのでしょう。しかし私にはどうもピンと来ない指揮者でした。

新録音のCDを好んで聞かないので、ヴェデルニコフがどんなCDを出しているのか知りません。私にとっては2年ほど前にN響の定期演奏会を指揮した時の印象でしか無いのですが、その時は確か「眠りの森の美女」の抜粋という、言ってみれば彼の現職の特徴を最も表しているプログラムのはずで、しかし私が感心しなかったのは、3大バレエの中でも最も地味な曲をさらに地味に演奏してみせたので、職人なのだろうけれど大向こうを相手にたんかが切れるような指揮者では無いのだ、と少し物足りなく思った次第です。

さて、今年も定期に呼ばれているとのことで、内心はまったく期待していませんでした。今回のプログラムはA定期が春の祭典ほか、C定期が悲愴ほかという意欲的なものですが、たぶん微温的な演奏で終わるのだろうなあとしか考えていませんでした。

結果はまったく違うものでした。どの演奏もおそるべき名演となりました。

すべてを述べるのは難しいので、大曲3つ、すなわち春の祭典、ドヴォルザークのチェロ協奏曲、悲愴について述べてみます。

春の祭典は私自身は好きでない曲です。春の祭典の魅力の1つはリズムにあると思いますが、私の好きなのは点でない線の音楽ですので、春の祭典は対局にあるといえましょう。したがって私の好きな演奏はカラヤンの新しい方、徹底的にレガートで仕上げた演奏です。他には常識的なショルティの旧盤でしょうか。

冒頭のファゴットの鳴らせ方からして、おおっと感心します。決して大きくはないのですが、たっぷりと長く鳴らすのが新鮮で、その後の演奏を期待させます。様々な楽器が登場し音が大きくなるにつれて私は「これは・・・」と思い始めました。どこをとっても堅牢で綻びが無いのです。いわば完璧な音楽なのです。

やや遅めのテンポ、揺るぎない運び、決して騒がない大人の鳴らし方、それでいて決めるべきところはバチーンと決めてホールを揺るがす。私は稀に見る名演だと感じました。ヨーロッパの超一流のオケを聞いているかのようです。何よりヴェデルニコフが決して慌てない、まさに王者の風格なのをかんじました。N響からこれだけの響を引き出せるなんて、まさに神業のようです。

後日、団員の談話として「練習であんなに絞られたのは久しぶり」とあったそうですが、私は本当だろうと思います。それぐらいに素晴らしい響、素晴らしい音楽でした。私はヴェデルニコフに対するイメージを一新しました。

日を変えてC定期。クニャーゼフをソリストに迎えてのドヴォルザークのチェロ協奏曲です。苦難の多い生涯を送るクニャーゼフらしい、粘りに粘った音楽は聞き応えがあります。実演でこれに匹敵するのはそれこそデュプレとチェリビダッケの演奏ぐらいでしょう。それぐらいすさまじいドヴォルザークです。

だいたいドヴォルザークのチェロ協奏曲は、CDで聞くのとは違って音量のバランスが取れない音楽です。昔、高名なチェリストが弾く時に、指揮者は(この人も高名な人でしたが)音量のバランスをとるためにオケを縮小してVn1を3プルトぐらいにしていました。それでも聞き取りにくかったのを覚えています。

クニャーゼフは・・・そんな心配はありません。バックのN響はシンフォニーをやる時と大して変わらない7プルトです。それでもクニャーゼフは朗々と聞こえてきます。どれだけ大きな音なのかと疑ってしまうほどに。

そしてクニャーゼフに合わせるヴェデルニコフの音楽づくりの素晴らしいこと。遅めのクニャーゼフに合わせるだけでなく、さらに各フレーズ終止の和声をたっぷりと余韻を残して、NHKホール全体にドヴォルザーク独特の和音がわおんわおんと幽かに響くときの美しさ! こんな幽玄で活力溢れるしかも粘りに粘ったドヴォルザークは初めてです。各楽章、涙が出るほど美しい演奏でした。二人に感謝です。

ここまでくれば、もうヴェデルにコフがよくわからない指揮者などと言ってはいられません。名指揮者です。めったに出会うことのない名指揮者です。

チャイコフスキーの悲愴は、もうお分かりのように、久々に背中がぞくぞくとするような名演でした。オケの横のラインをたっぷり鳴らしながらも、決して濁らない凄さ。ものすごい練習だというのも納得できます。先日までパーヴォと一緒にマーラーを華やかに鳴らしていたとは思えない、黒光りのする羊羹のような響き。私はこんな響は久し振りで、どこかで聞いたようなと考えて思い出しました。

東の響きです。まだベルリンの壁が崩れる前、共産主義の元で第二次大戦時とほとんど同じ響きを残していた、ベルリン交響楽団とかシュターツカペレ・ドレスデンがかつて持っていた響きです。それはアメリカが率先した機能的な響き(日本も影響を受けました)とはまったく異なる次元の、恐ろしいまでの緊張を孕んだ響きです。それがN響から聞こえてくるのです。

いやはや、恐れ入りました。わずかな練習でここまで徹底的に暗いスラヴの響のオケに変えるとは、ヴェデルニコフは只者ではないです。もちろんそれに応えることのできるN響の高い技術力にも脱帽なのですが、私には今までノーマークだったヴェデルニコフの素晴らしさに圧倒されっぱなしの悲愴でした。終楽章の慟哭の凄まじさは全身の毛が逆立つほどで、久々に打ちのめされて客席でぐったりしてしまうような凄さでした。

結論 次に招聘されるのが最も楽しみな指揮者となりました。私はパーヴォを常々褒め称えていますが、パーヴォには無い、地の底から魂が這い上がってくるような重さと深さを持った指揮者、それがヴェデルニコフだと感じます。N響も練習がきついなどと嫌がらず、この指揮者も大事にしてほしいものです。21世紀になって初めて凄い指揮者に出会った感じです。

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October 08, 2016

⚫️夜の表現の彫り深いマラ3の名演 パーヴォ/N響 2016.10.08.

N響90周年企画、サントリーホールのオープニングから30周年企画と合わせて、サントリーホールで一夜だけの演奏会として、マーラーの交響曲第3番がパーヴォ・ヤルヴィ指揮で行われました。女声合唱は東京音楽大学、児童合唱はNHK放送児童合唱団、アルト独唱はデ・ヤングです。

これまでこのコンビのいくつかの名演を聞いてきた私としては、演奏前にもおおよその演奏の輪郭を描いてみることができます。おそらくテンポは速いであろうこと、ここぞという場所でアゴーギクを聞かせるが、すぐに元に戻る、つまり円弧を描くような演奏をするだろうこと、部分的に非常に彫りの深い表情をつけるだろうこと、などです。

N響をサントリーホールで聞けるのは久しぶりです。NHKホールで聞くのも悪くないと思っていますが、サントリーホールで聞くN響はまた格別です。音の余韻が嫋嫋と広がり残るのを楽しむのは最高の幸せです。

さて曲の冒頭、ホルンの壮大な斉奏ですが、予想通りパーヴォはあっさりと早めに始めました。ぐいぐいと進んでいきます。しかし部分的な掘り下げは半端ではありません。マーラーがお得意とする調性の変化を半音下降で示す部分は、下降した部分をぐっと小さく示し、そのことがかえって変化の凄まじさを示してくれます。

パーヴォはその下降する部分をわざと左手をかなり下まで示してオケにおおげさに支持します。こうするとN響も演奏不能な域になるまで下げてくるのですが、これが非常に大きな効果をあげます。今まで昼の日中にいたのが、食が始まって急に夜が来るような不安に襲われます。

何度もこれを体験するうちに、「ああ、これは夜の音楽なのだ」と納得がいきました。交響曲第7番ではっきりと示した夜、不気味だがロマンチックな夜の姿が早くもこの曲で示されているということでしょう。

そのようなコントラストの比を大きくとりながら、快速で進んでいきます。これは第2楽章・第3楽章でも変わりません。すさまじい昼とすさまじい夜のせめぎ合いです。非常に立体的な演奏が心を波立たせます。このメルヘン的な交響曲ですら、マーラーの複雑な心象の影響を逃れてないということでしょうか。聞き応えがありますが、聞いていて疲れることもまた多しです。

第4楽章はそのような対比は行わず、ひたすらに夜の音楽です。デ・ヤングの独唱が深くて美しいです。

余談ですが私はこの曲を初めて知った40年ほど前は、この第4楽章が苦手でしょうがありませんでした。若い私には退屈な音楽でした。当時はこの第4楽章といえばどの演奏でも伊原直子先生が独唱をするのが当たり前のような感じでしたが、伊原先生が立ち上がるたびに「ああ、また退屈な10分ほどが始まる。はやく快活な第5楽章が来ないかしらん」と持ったものです、不謹慎なことでした。

年老いた今では、この第4楽章を聴くことは大きな喜びに変わりました。演奏家の、作曲者の人生を深く感じ取れる楽章です。

爆発的に快活な第5楽章でした。第4楽章と合わせての立体的な表現だと思います。聞き応えがあります。

大好きな第6楽章はここまでの演奏の総まとめです。パーヴォは速いテンポで進みますが、大きな対比を生かして豪快な演奏にまとめ上げました。

パーヴォが指揮すると、N響が子供のように真剣に演奏するのが見ていて好ましいです。第1楽章のクライマックスは弦楽器は忙しい音形ですが、ここを弓も折れよとばかりに真剣に弾くN響の姿は絶えてなかった姿ですし、これが表出できるN響であれば、もともと実力では世界トップクラスのオケですが、おそらく実質的にも世界トップに近づいていくのではと嬉しい予感がします。

サントリーホールの優秀な響き、パーヴォとN響のやる気に満ちた表現的な音楽に彩られた、なかなか聞き応えのあるマーラーの3番でした。インバルが都響を引退した今では、東京でもっとも刺激的なマーラーであろうと思いました。

これも余談ですが、ここまでパーヴォのマーラーを1、2、3、8番と聞いてきて、やはり少し私には合わない部分もあるな、と今更ながらに感じました。たいへん優秀で、今の世界を探してもそう聞けないような名演たちですが、私はもう少し広がりのある、刺激的でなくとも祈りのあるマーラーが好きです。3番も一昨年だかにN響がデュトワと演奏したのが忘れられません。デュトワはパーヴォのような刺激的なことはありませんでしたが、老境に入った彼の心象さながらに穏やかで美しく哀しい終楽章を聞かせてくれて、涙が出ました。私はそのような演奏が好きです。








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October 02, 2016

⚫️今夏、心に残ったCD(その2) 2016.10.02.

(続き) 友人がParryの弦楽のためのEnglish Suiteという曲を演奏すると聞き、そのCDが入手しづらいとこぼしていたので、代わりに探してあげました。ウィリアム・ボウトン指揮のがイギリスNimbusレーベルでかろうじて残っていたので、イギリスから取り寄せて、友人に貸す前に聞いたところ、Parryの作品よりもカップリングされていたFranck-Bridge作曲の弦楽のためのいくつかの小品がいずれも面白く心に残りました。

特に民謡からの引用のある曲は聞きやすいといえます。ある小品は最初は何の曲だか全く分からないほどデフォルメされていたものが、やがて元のメロディの姿に戻っていく(つまり変奏曲を逆に遡るような手法)と、おなじみのダニー・ボーイの旋律をだったりするのを興味深く聞きました。

ボウトンの指揮は音をたっぷりと弾いてくれて私好みです。

この人のCDはもう1つ買いました。ウォルトンの交響曲第2番です。過剰な表情を避け、素直な演奏なのが好ましいですね。

Nimbusの作るCDは私の好みに合う曲や演奏が多いのですが、不況のせいか正規のCDを作るのを止めて、現在出回っているのはCDーRばかりです。私の貧弱な装置ではダイレクトにはかからず、一度PCを通して取り込んでからでないと聴けないのが手間がかかって残念。いずれこの会社も板起こしはやめてダウンロード専門になるのでしょうか。板を愛する私には困った傾向です。

チャイコフスキーの交響曲、つまり3大交響曲よりも、実は初期の3つの交響曲のほうが好きだったりもします。特に第1番の森閑とした幽玄さが好みです。2番の狂騒、3番のたおやかなロマンも好みです。

ソヴィエトの大指揮者、ロジェストヴェンスキーが1980年代にソヴィエト国立交響楽団と録音した2番と3番が1枚のCDで投げ売りされていたので買って聞いたところ、これはまた優秀な演奏はでびっくりしました。

ソヴィエトが崩壊する前のオーケストラは、かなり優秀だったと思わされます。ロジェストヴェンスキーは縦の線も横の線もきちんと合わせる人だったので、いっそうきちんとした演奏に聞こえます。

でもそれだけだったら、私の嫌いな「合っているだけの演奏」になるのですが、ロジェストヴェンスキーはまさに名人芸のような抑揚をつけ、フレッシュな演奏を聴かせてくれます。私は1980年代という去った時代の響きを堪能しつつ、この独特な抑揚を好ましく聞きました。

チャイコフスキーの初期の交響曲を力だけで聞かせる指揮者が増えていますが、それがいかに間違っているかを悟らせてくれる、チャーミングなCDです。

先述のボウトンのようなイギリス人指揮者はすべて「よくて1.5流」と切り捨てたのは先般亡くなった評論家、宇野功芳でした。

宇野功芳の音楽評論は40年以上前からたくさん読みました。あまりにも主観が多くバサバサと切って捨てるので、どうなのかと考えることもしばしばでしたが、まあしかし読ませる評論であることは間違いないことでした。

彼は本職は合唱指揮者でしたが、そちらの面ではあまり目立つことは無く不遇だったかもしれません。しかし評論の人気が本職をはるかに凌駕していたので、ほとんどの人は彼の本業が評論家なのだと思っていました。

彼は日本におけるブルックナーの普及にかなり貢献しています。まだブルックナーが日本で聞かれなかったころから、朝比奈やクナッパーツブッシュやシューリヒトの指揮するブルックナーの素晴らしさをとうとうと述べていたからです。これはのちになって大きな潮流となりました。

批評の鋭すぎる彼、そんな彼に実演もやってもらおうじゃないか、あんなひどいこと書いているのだから、さぞかし実演もできるのだろう、もしできなかったら笑ってやろうと意地悪な気持ちが芽生えるのは人の常です。宇野の偉かったのは、オーケストラの指揮者でないにも関わらず、その手の挑戦を受けたことでしょうか。

1980年代だったか、彼の指揮するブルックナーの交響曲などのレコードが出たことは出ましたが、プロのオケでなくアマチュアのオケだったこともあり、その演奏は「変わってる」ぐらいの評価にしかならなかったように覚えてます。

彼が亡くなってみて、そういえばそんなレコードが出回っていたはずだとネットで探すと、そんな古い音源ではなくて、ほんの数年前にベートーヴェンの7番とシューベルトの未完成を入れたCDが売られていたので買ってみました。オケは日本大学OBによるオケです。

聞いてみて、うーんとうなりました。オケはけっこう優秀です。しかし宇野の音楽は、彼が尊敬するフルトヴェングラーやワルターを彷彿とさせる、徹底的にロマンあふれる演奏だったからです。うなったのは、これを是とするか非とするか、私も一瞬ちゅうちょしたからでした。

でも考えてみれば、私は新古典主義の時代に育ちクラシックが無味乾燥であると錯覚させられた世代です。それを打破してくれたのは私の生まれる直前の演奏家たち、フルトヴェングラー、ワルター、トスカニーニです。あるいは遅れて知ったチェリビダッケであったり。

してみると、宇野の演奏はまさに私の好みにぴったりあっているわけで、これを奇貨とせずにはいられません。

宇野の指揮するベートーヴェンが、ゆっくりとしたテンポでごうごうと盛り上がっていくのを聞くと、ああ、まさに音楽の本質がここにあるな、とひそかに拍手をしました。彼はやっぱり音楽が大好きな人でした。

トスカニーニについて最後に書きます。彼の最新のディスクで非常に感動したからです。

曲はヴェルディのレクイエム。トスカニーニ晩年の名演です。私もよく知っているものです。

ところが数ヶ月前に、このヴェルディの新しいバージョンのCDが出ました。演奏は同じものです。しかし、何とステレオ録音なのです。

何でも、モノーラル録音のマイクとは別にもう1本、試験用か何かのマイクが離れたところに立っていて、それが本番録音も捉えており、2つを合成してステレオ録音にしたという、本当だかどうだかわからないような話です。

でも一聴して私は大興奮しました。本当かどうかはわからないけれど、確かにあの有名な演奏が、音が分離されたステレオ録音で聞こえます。

不自然な感じはありません。おそらくバランスをかなり修復したとは思われますが、最晩年の2つの演奏会ステレオライヴ、すなわち悲愴とワーグナーよりも、さらに鮮明な録音となって現れました。

これを聞くと打ちのめされたような気になります。私はたくさんのトスカニーニを聞いてきました。たくさんの感動と勇気をもらいました。しかしこのマユツバかもしれないヴェルディのステレオ録音は、それらを遥かに凌駕する感動を持ってきました。私の愛した彼の演奏は何だったのか、そんな根源的な問いにまで発展しそうなCDです。

というわけで、感動しながらも困惑して、未だに私の気持ちの整理がつかない問題作です。こんなCDも私の夏を彩ったものでした。

今年の夏はCD鑑賞においていえば、すてきな夏でした。たくさんの名演や名盤に感謝しつつ。

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October 01, 2016

⚫️新鮮なラフマニノフに驚かされる パーヴォ/N響 2016.10.01.

N響C定期、常任指揮者のパーヴォ・ヤルヴィ指揮で、プロコフィエフのピアノ協奏曲第2番とラフマニノフの交響曲第3番という渋いプログラム。ソリストはマツーエフ。

遅刻して前半のプロコフィエフは残念ながら聞けず。ラフマニノフから聞きました。

ラフマニノフの第3交響曲はCDで何度聞いてもピンとこない曲です。第2交響曲のように溢れるような旋律美があるわけでなく、3楽章形式という交響曲としてはやや珍しい構成だし、響きとしては混濁した塊が何度も襲いかかるのが気になる聞きづらい曲です。

さてパーヴォ、いつものように柔らかい棒で出始めます。N響の美しいこと。パーヴォの棒はいくつかの利点がありますが、まずはオケの響きがつややかで豊麗なことがあげられます。

やがて展開部でチェロの美しいカンタービレが登場した時に、ああ、と私は納得しました。オーケストレーションが複雑でCDでは分かりにくかったのですが、このピンとこない曲にも明快な旋律があって、それがこれまでの演奏では隠されていたのだと。

何と豊麗なメロディ。ここのチェロを聞いただけで、第2交響曲に勝るとも劣らない素晴らしさが感じられ、これを聞かせてくれるパーヴォの才覚に感心してしまいます。

旋律の喜びがわかれば、理解が進みます。管楽器が3管編成で複雑に奏でることが多く、それが何を目指しているのかが分かりにくかったのですが、パーヴォの演奏ではこれも明快に分かりました。このラフマニノフは、ロシア音楽の体裁を持ってはいますが、もはやアメリカ音楽なのだと。

アメリカ音楽の近代的な部分、すなわちメロディをも凌駕するような対旋律のからみあいのすさまじさ、そしてそれが一瞬だけ収束するときの乾いた美しさが、この曲の激しい部分で特徴的です。これもCDでは分かりにくかったことです。

いつものようにスウィングしながら指揮するパーヴォ。それによくついていき、楽しげにすら見えるN響。ロシアっぽさを持つアメリカの交響曲が現前する様子に、私はあっけにとられてしまいました。何という名演かと。

ソヴィエトを嫌ってアメリカに定住したラフマニノフが晩年に書いた交響曲第3番。評判が決してよくなかったにも関わらず本人は愛していた曲だそうですが、老いてなおもみずみずしい旋律を持ちながらも、長い滞米で身についた独特の重層さが盛り込まれた傑作なのです。

いやはや、パーヴォには頭が下がります。おそらく得意な曲なのでしょうが、徹底的にオケを洗って旋律を浮かび上がらせ、複雑な響きをストレートで魅力的な響きに変え、この曲の隠れた魅力を引き出してくれたのですから。

パーヴォとN響、この名コンビが長く続きますように。そう祈り、今日も感謝しながらNHKホールを後にしました。

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September 19, 2016

●今夏、心に残ったCD(その1) 2016.09.19.

ここで取り上げたいCD
 ベートーヴェン:交響曲第4番・第5番
 ベートーヴェン:ミサ・ソレムニス
 バッハ:ロ短調ミサ曲
 エルガー:神の王国
 エルガー:弦楽セレナード
 フランク=ブリッジ 弦楽作品集
 チャイコフスキー:交響曲第2番・第3番
 ベートーヴェン:交響曲第7番

 夏は体調を崩して寝込むことが多かった日々でした。家にじっとしているものですから、今年は比較的によくCDを聞いていました。そんな中で心に残ったものをいくつか。

●追悼、アーノンクール
 オーストリアの大指揮者、アーノンクールが亡くなりました。若いころはウィーン交響楽団などでチェロを弾き、その後ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスという古楽器団体を設立して主に17世紀の音楽をフレッシュな演奏で聞かせ、晩年はウィーン・フィルなどのモダンなフルオーケストラを指揮しながらも古楽器演奏の魂を忘れなかった人です。

 アーノンクールを私はそれほど好いていません。私はどちらかというと古楽器風で無い音楽、すなわち音符を音価の時間分だけたっぷりと鳴らすことが好きなのです(今やそんな演奏家はほとんどいなくなりましたが)。アーノンクールが世間で騒がれ始めた70年代終わりから、私はどうも好きになれない、そんな音楽を奏でる人でした。すべてが新しく、そしてすべてが過剰に刺激的な人でした。

 ウィーン・フィルとの実演を聞いたこともあります。ハイドンを聞かせてくれました。今日の演奏の先取りをした、アクセントとディミヌエンドの強い演奏でした。しかしこれがウィーン・フィル本来の演奏とは思えないような、ぎざぎざした音にがっかりしたものです。

 そんなわけで個人的には遠ざかっていた指揮者ですが、それでも彼の偉業を貶めているわけではありません。彼は楽譜に書かれ、それをその当時(50年ほど前)に当たり前に演奏されていたことを徹底的に疑い、おそらくはこんな演奏をしたかったのではないかという姿にして私たちに提示してくれ、その姿は比類なき高みにまで達していったことは確かです。

 ここ20年ほどはモダンなオーケストラを指揮して録音を出すことが多かったのですが、最後のCDは主兵コンツェントゥス・ムジクスとの演奏でした。最後のスタジオ録音であるベートーヴェンの交響曲第4番・第5番を聞くと「ああ、まさにアーノンクールの原点がここにある」と思えるような凄絶な演奏です。

 鋭いアタック、激しいディミヌエンド、高らかなトランペットと激震するティンパニ。美しさを通り越して鬼神が演奏するようなベートーヴェンです。私は「すごい。この人はやっぱりこういう音楽を信じ続けたのだな」と、ちょっと感動しました。彼のぶれない姿勢に対してです。しかしたくさんの問題をはらんだ演奏であり、特に第5番のコーダは「それはないでしょう」と私はつぶやいたりしました。それぐらい凄い演奏で、まあしかしこの夏もっとも心に残ったことには間違いありません。

 同じメンバーによるベートーヴェンでも、最後のライヴ録音となったミサ・ソレムニスになると、大所帯のせいか少し音楽は変わってきます。速めのテンポで進みますが、交響曲ほどの斬新さはありません。しかしここでも楽聖の音符をただの美しいだけの演奏にはしないぞとばかりの気迫が感じられます。劇的でしかも程よく美しい演奏でした。フーガなどはもう少しゆっくりと演奏してほしかったけれど、交響曲よりは素直に受け入れられる演奏でした。

 アーノンクールという芸術がなんであったのか、私も遅ればせながら少しずつ考えて行きたいと思います。


●バッハのロ短調ミサ曲
 この秋に行くもっとも楽しみな演奏会のひとつに、ロ短調ミサ全曲があります。アマチュアの合唱団とオケの演奏ではありますが、ふだんこの大曲をなかなか聞けないでいるので、「秋はロ短調ミサ」と自分の頭にすりこんでおります。

 予習(正確に言うと復習ですが)のCDとして、オーソドックスなもの(リヒターとか鈴木とか)にしようかとも思いましたが、ややあまのじゃくな私は、もっともバッハの似合わない人、つまりカラヤンのCDを取り出して聞きました。

 これこそアーノンクールの正反対の音楽です。音は分厚くべったりとしています。歌はまるでオペラ・アリアのよう。本来、清純であるべきな宗教音楽が、現世の欲にまみれてしまったかのような極彩色の演奏かもしれません。若きアーノンクールはカラヤンの演奏が大嫌いだったそうで、さもありなんと思える両者の違いです。

 それでも私は、カラヤンの演奏に幾分かの正統性を感じないわけでもないのです。人の声を伸ばしていくとそれは自然と音楽になります。バッハやモーツァルトの時代、声は器楽を真似、その器楽が響きの出ない古楽器だったからこそピリオドのようなスタイルに収れんしたのでしょうが、もし当時、現代の楽器があれば素直に音を長く伸ばしたのではないか、その方が心にしみる時間が長くなる、そんなことをカラヤンは考えさせてくれます。

 彼の演奏が極彩色だからといって、彼が不真面目だったわけではありません。名歌手とともにぎりぎりまで表現したことではアーノンクールと変わらなかったと言えましょう。少なくとも70年代のカラヤンは、自分をひたすらに信じた強さと真面目さが共存していました。彼のバッハも私には大事な演奏です。


●エルガー:神の王国、弦楽セレナード
 ミサ・ソレムニスやロ短調ミサなどの宗教音楽につかっていた私は、もう一つ新しい大規模合唱曲の魅力を知りました。 エルガーのカンタータ「神の王国」です。

 もともとエルガーの音楽が好きな私です。若いころ、エニグマ変奏曲でエルガーの虜になったのですが、その後2曲の交響曲やヴァイオリン協奏曲などを通じてすっかり夢中になったものです。また近年では「ゲロンティアスの夢」という超大作でもエルガーに魅せられたところでした。

 名指揮者ヒコックスが亡くなって数年になりますが、ヒコックスが残したエルガーの録音のうち、大規模で高価がゆえに入手しにくかった「神の王国」が、某所で非常に廉価で売られていたので買ってきて聞きましたが、これまた素晴らしい曲、そしておそらく素晴らしい名演です。

 ゲロンティアスよりも素朴なだけに人気が出にくいのでしょうが、一聴しただけでさらにすてきな曲だと思えました。詳しく書くほど精通できてないのが残念ですが、夏の後半をこの曲と過ごせたのは幸いでした。

 エルガーの弦楽セレナードは誰もが認める名曲ですし、名演のCDも数多くあります。最近再発売されたのが、ネヴィル・マリナー指揮アカデミー室内管のCDです。このエルガーの弦セレは、昔から知っていたことですが改めて聞き、いま風に申し上げるなら「神のような」演奏だと思いました。

 カラヤンとは少し異なりますが、マリナーもまた音符をしっかりと弾き切るタイプの演奏家でした。現在非常に高齢になった彼ですが、N響に客演するときの演奏は、まさに20世紀中葉のボリウムたっぷりの演奏を聞かせてくれ、往時をしのばせてくれます。

 かといってマリナーがデリカシーなくただ音を鳴らしていたかというとそうではなく、逆にどこを出してどこを控えるかが明確に指揮できた人でした。そんな彼が作り上げたエルガーの弦セレの素晴らしいこと! 何気ないフレーズは色気を帯び、流麗と沈黙の両方を使い分けながらエルガーの高貴さをさりげなく歌うその抜群の音楽性! 特に2楽章は完璧な演奏といってもいいでしょう。

 エルガーの弦楽作品のその他有名どころや、ディーリアスの短い管弦楽作品をいくつか併録しています。このディーリアスもまた素晴らしい。ビーチャム以降、初めての完璧な演奏だと感じました。ディーリアスのはかなさを的確に表現できる人も現代では居なくなりました。


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September 09, 2016

⚫️パーヴォ/N響 豪快なマーラー「一千人の交響曲」 2016.09.08.

N響は創立90周年を迎えるそうです。私がその姿を知るのは最近の40年ぐらいのことですが、それでも大きな変遷があったと感じます。マタチッチやサヴァリッシュ、岩城らが実質的に率いていた質実剛健の時代あり、初めての音楽監督となったデュトワの精密で華やかな時代あり、続く音楽監督だったアシュケナージの素朴で真面目な時代あり、です。

いま、パーヴォ・ヤルヴィを首席指揮者に迎え、細部にこだわりながらも大きくうねるような演奏をする、新しい時代を迎えました。ヤルヴィの指揮する音楽はどれもわくわくさせられ、いい時代が来たな、と感じられます。

さて、90周年事業として記念演奏会が開かれ、たった一夜ですがマーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」が選ばれ、主にパーヴォお気に入りのエストニア出身の歌手を集めての大演奏会が開かれました。N響としては数年前のデュトワ指揮の同曲の演奏からあまり間をおかずにこの大曲に臨むことになります。

NHKホールの舞台は後方いっぱいに合唱団席が置かれ、新国立劇場合唱団とNHK放送児童合唱団、見た目では総勢約300名ほどでしょうか、が所狭しと並びます。また拡張されたステージ前方にはN響が5管編成の巨大オケとして並びます。フルートパートに至っては6管ですので、その大きさは比類ないものです。

冒頭、オルガンの強奏を伴っての開始部「来たれ、創造主たる精霊よ」が堂々と始められます。私は前回のデュトワは会場では聞けなかったので、NHKホールでこの曲を聞くのは実に久しぶりなのですが、やはりホールの巨大さもあってか、思うように音が飛んでこないのがもどかしいですね。

もっともNHKホールの音にはそれなりの気品があるので、音の小ささを含めての楽しみ方があります。音楽はそれを聴くものには十分なものを届けてくれます。NHKホールをあからさまに否定する方が多いのですが、私は安くたくさんの人にオーケストラやオペラを提供してくれる有益なホールとして私は愛しています。

第1部は特筆することもなく終わりました。元々が狂騒的な音楽であり、誰が指揮しても同じように聞こえます。とにかく押し出していけばいい音楽だと思います。パーヴォはいたるところで小さな工夫をしていましたが、これだけ規模が大きいと、工夫も目立たなくなります。

第2部こそは指揮者の真骨頂が示される部分です。パーヴォは比較的早めのテンポで進めていきながら、随所に大きなうねりを作って、彼らしい回転するような音楽を回していきます。歌手もどの方も水準以上で、特に法悦の神父を歌った方はオペラティックでありながら大衆に温かく教示するような姿勢が素晴らしいと感じました。

神秘の合唱から最後の終結部まで、速めながら間然とすることなく豪快に終わり、この曲を生で聴く喜びに満たしてくれました。オケも合唱も非常に優秀で、まさに日本の1つの模範となる演奏だったと思います。

ただ、欲を言えば、高揚感はあっても人生の奥深さなどは少ないような気がしました。比較するのは意味がないのですが、かつて日本でも若杉やベルティーニやインバルが聞かせてくれたような、魂が震えるような深い喜びというものは少なかったと思います。

パーヴォのマーラー、第1番「巨人」の圧倒的な名演が最初にあったので、第2番「復活」がやはり高揚しながらも深さが感じられず少しもどかしかったように、実は1番のような器楽作品は良くても、2番や8番のような宗教的な合唱大作はあまり私の好みとは合わないのかな、という気がしました。

まあしかしそれは好みの問題。今日の8番の豪快な演奏で、90周年を祝う相応しい演奏となりました。N響は好まない指揮者には言うことを聞かないオケですが、パーヴォと演奏する時は喜々として演奏する姿がとても好ましく、そんな意味でもパーヴォにはこれからもずっとN響にいて欲しいと改めて思った一夜でした。




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July 17, 2016

⚫️意外な名演 アルミンク/N響の新世界 2016.07.17.

N響夏を聞きに行きました。毎年この時期にN響が新進気鋭の指揮者を招いて行う名曲コンサート。今回の演目は「魔笛」序曲、モーツァルトのクラリネット協奏曲(独奏はポール・メイエ)、後半は新世界という超名曲ぞろいです。指揮者はアルミンク。

アルミンクは日本では新進気鋭とは言わないですね。すでに10年近くものあいだ、新日本フィルの監督として東京の楽壇にはおなじみの人だからです。

アルミンクは悪い指揮者では無いと思いますが、音楽がひ弱なイメージがあります。私も最後に聞いたのは数年前のマーラーの大地の歌で、美しいけれどもさして印象に残らなかった気がします。

様々な企画で新日フィルを引っ張ったけれど、何となく影の薄い存在ではありました。

さて1曲めの魔笛。最初の出だしで音程の悪かった管楽器がいたのは残念。中音域だったのでクラかホルンか、音程が上ずり、おやと思いました。しかしその後は立ち直って、やや神経質ながら美しいモーツァルトを聞かせてくれました。アルミンクの美点が生きた演奏だと思います。

メイエにはハプニングが。ずいぶん長いこと舞台裏でクラの音出しが続くので聴衆も少し苦笑。しかもメイエが出てきてあの美しい前奏が流れ、いよいよクラ独奏と思いきや、変なクラの音がびよーん。あれぇと思った瞬間メイエは楽器を放り出すかのように指揮台に置き、スタスタと舞台袖へ引っ込みます。あっけにとられる聴衆、指揮者も困惑顔。

どうも楽器の調子が悪かったらしく、もう1本のクラリネットを持って現れ、涼しい顔で「もう一度」のジェスチャー。今度はうまくいき、流れるような素晴らしいクラリネット独奏を楽しむことができました。しかし現代の演奏家らしく、かなり神経質な気の配りの演奏で、やや疲れたことも否めません。この曲にはもう少し大らかな感覚が欲しいと思いました。

後半は新世界。N響夏が名曲コンサートという位置付けなので、これまでに何度も登場したことのある名曲です。しかし正直に言ってあきたし、アルミンクの繊細でひ弱な表現に合わないのではないかと危惧してあまり期待しませんでした。

ところがあにはからんや、意外なほどの名演となりました。

まずアルミンクの美点である音の美しさです。どんなに強奏しても音が濁らない。これは聞いていて心地の良いものです。

次にテンポの適切さです。やや早めですが、快速でぐいぐいと引っ張る、しかしそれが決して雑な感じを与えず、曲に見合った筋肉質な感じを引き立ててくれます。

そして何よりここが大事ですが、フレーズの処理の美しさです。ドヴォルザークは稀代の旋律家なので美しいフレーズがあまた出てきますが、そのフレーズを長い円弧のように捉えて演奏すると同時に、フレーズ終端をいい加減にすることなくきちんとおしゃれにまとめてくれ、それが次のフレーズへの橋渡しとして生きてきます。したがって音楽が停滞することなく華やかで切ないメロディが百花繚乱として出てくる、まことに素晴らしいドヴォルザークとなりました。

私は聞いていて途中から「これは・・」と感じました。かつて聞いた名匠たちの記憶を呼び起こしてくれたからです。マタチッチ、サヴァリッシュ、スイトナーらがN響と繰り広げてくれた名演たちを彷彿とさせる、男らしくてしかも繊細な演奏にすっかり魅了されてしまいました。

新日フィル時代にはあまり見られなかったものです。もちろん本人の成長もあるでしょうが、当時やる気にかけていた新日フィル、女性らしい演奏しかできなかった新日フィルに比べ、一時の停滞期を脱して、若手が増えてきて今登り坂にあるN響の力強さがこの名演を支えたのかもしれません。

アルミンクの本領を垣間見たような気がします。今後、定期演奏会に呼んでほしいと思いました。今日の名演に感謝します。

(ピアノ・室内楽・声楽の話題はもうひとつの私のブログへどうぞ)


・・今手元には他に・・

ディーリアス, エルガーの弦楽合奏集(CD)
マリナー/アカデミー室内管(1970頃)

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June 12, 2016

⚫️やはりアシュケナージ/N響は・・・2016.06.12.

NHK交響楽団6月の指揮者はウラディーミル・アシュケナージ。前半はバラキレフ作曲の「イスラメイ」とチャイコフスキー作曲の協奏的幻想曲ト長調作品56という大変珍しい作品の上演。

イスラメイはピアノで非常に有名な音楽ですが、オーケストラ演奏は大変珍しいと思います。なんでもバラキレフの弟子リャブノーフと言う人の編曲らしい。どうしてまあ悪くない編曲ではあるけども、特にこの形で、つまりオーケストラ編曲の形でこの名曲を聞くには値しないかなと思いました。イスラメイはやはりピアノでこそ聞きたい名曲だと思います。

チャイコフスキーの協奏的幻想曲とは私も初めて聴く曲です。形としては2楽章30分の大ピアノ協奏曲です。しかしこれは退屈。この世にはびこってない理由もよくわかります。まずピアノが非常に面白くない。まるでエチュードを次から次へとつなげたようなつまらなさ。しかもオーケストラも山場がほとんどなく、何というか晩年の作品にしては駄作だなぁと言う感じです。同じ無名のピアノ協奏曲ならピアノ協奏曲第2番チェロ付きを演奏して欲しかったなと思いました。

後半は、メンデルスゾーン作曲の交響曲第3番「スコットランド」。私の大好きな曲です。果たしてアシュケナージがどのような演奏してくれるのか、興味半分怖さ半分といったところで演奏に臨みました。

怖さ半分と言ったのは、私はかねてからここに書いてるようにアシュケナージの指揮に対して非常に疑問を呈するところがあって、それが悪い方向に作用しないかと気になったからです。

桂冠指揮者アシュケナージがN響に登場するのは確か2年ぶり。前回は、リヒャルト・シュトラウスのアルプス交響曲だったように覚えています。このときの彼の指揮も悪さが出てきました。すなわち小節線を意識しすぎたゴツゴツの音楽になって横の流れが悪かったからです。これはオーケストラ音楽としては致命的だと私は思っています。がっかりした覚えがあります。

これまでに何度も書きましたが、アシュケナージは世界最大のピアニストです。その名を汚すわけでは無いのですが、私は彼には指揮者としてはかなり疑問があります。もちろん楽譜を読む力とかそんなことを言ってるのではありません。彼がピアノ音楽を作るようにオーケストラ音楽を作ってるのが不満なのです。ピアノ音楽は点の音楽です。一瞬一瞬にして音が消えてしまう音楽です。それに対してオーケストラは必ず線の音楽です。線が長く長く伸びていきもつれ合い絡み合い、しかし層をなして美しい織物になっていく、そんな音楽です。アシュケナージが指揮するとその織物が上手にできず、どうしても毛玉がたくさん出来るような音楽になってしまいます。

「スコットランド」は、古典的なロマン派の名作です。したがって、私が危惧するように、小節線を意識しすぎてゴツゴツになるという事は少ないのかもしれません。そう思って少しはアシュケナージの音楽に期待したのですが…。

結果は、全くだめでした。残念なことに。

あの美しい第1楽章からして音楽が停滞しています。音楽が4小節ごとまたは8小節ごとに流れるのではなく、必ず1小節ことに停滞してるのです。これは非常に残念なことです。

さらに悪いことに、音が汚い。もう少し弓をゆっくりにさせれば、もう少し息を長くつなげば美しい響きになっていくのに。何だかやけくそに弾いているような最悪なメンデルスゾーンになりました。

私はここ10年ほど、毎年のようにアシュケナージの指揮を聞いて批判していますが、今日ほど悪かった演奏も珍しいです。

うーむ。聴衆はいつものように大拍手でしたが、私はN響自身とお客様のためには、もう呼ばない方がいいのかも知れないと思います。そこまでダメ出しするのも珍しいのですが、いまオーケストラ文化が世界でも最高に輝き出した東京の楽壇で、年配の彼が晩節を汚すことはして欲しく無いというのが、同じ中高年としての私の正直な気持ちです。




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