February 25, 2018

●玉石混交、2月のパーヴォ/N響 2018.02.25.

 首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィは年3ヶ月ほどN響を指揮します。2018年2月は、私は珍しくすべての演奏会にいけました。簡単に報告を。

 最初のC定期はマーラーの交響曲第7番。昨年の欧州楽旅ではマーラーの6番を持っていき、その筋肉質な響きが各地で絶賛をされたとか。そういう意味では最も楽しみなプログラムです。

 冒頭のテーマが流れ出すとまず驚いたのは快速なテンポ。いや快速すぎるといってもいいぐらいです。パーヴォらしく随所に工夫を凝らした演奏ではありますが、私にはやや性急過ぎて楽しめない演奏です。

 彼のマーラーは実演で驚嘆した1番を筆頭に、2番、3番、8番と聞いてきました。また6番は放送で聞きました。結論めいたことをいうのはおかしいかもしれませんが、あまりにも1番で驚嘆したために私は誤解していたかもしれません。すなわちパーヴォはマーラー指揮者であると。

 しかしずっと聞いてきて、疑問に思ってきたことがこの7番の演奏で氷解したような気がします。それはパーヴォは音響素材としてのマーラーを料理しているだけで、その精神性に共感しているわけではないということが。1番は最も精神性の無い曲ですので、その解釈が見事に功を奏して素晴らしい演奏になりましたが、以後の作品、特に声楽を伴う2番3番8番などは良くなく、また今回の7番なども腕のふるい所であったにもかかわらず、違う方面に腕をふるっているのだなあと思いました。

 7番は怪作などとも評されますが、私の考えでは、6番で思いっきり私的な感情を発露した後、晩年の澄んだ境地へ向かう最初のステップと成る重要な作品です。テンポが速くてもおそくてもよいのですが、実は深い精神性を内包していることを理解していないと、ただのバカ騒ぎに終わってしまう演奏になります。人間性が試される曲です。パーヴォはおそらく理解して無いな、と感じてしまいました。

 続くA定期はフランス音楽集。デュリフレの3つの管弦楽作品、サン=サーンスのバイオリン協奏曲第3番(ソロは樫本大進)、フォーレのレクイエムと言った、これも楽しみなプログラム。

 まずデュリフレに期待しましたが、若い頃の作品だとかで、3つの舞曲という体をなしていますが、実につまらない作品でした。なにより主題が退屈で、それが様々に料理されていて、しかもデュリフレのレクイエムよろしく弱音が大事な音楽であることは分かりますが、とにかく退屈の一言です。

 サン=サーンスのバイオリン協奏曲は、樫本の太めで引き締まった音が素晴らしく、フランスものだからといってなよなよしていないのがとても魅力的でした。パーヴォのオケを鳴らしすぎる癖も、この曲では魅力的に響きます。

 フォーレは期待していなかったのですが、実は優れた演奏になりました。解釈としては特にこれまでの常識的な演奏を覆すようなことは無いのですが、まず合唱のすばらしさがこの演奏を高みに持ち上げました。東京混声合唱団の合唱はやはり日本一だと思います。ソリスト2人もまずまず。特に急な代役だったバリトンの甲斐はよくがんばっていました。

 さらにいうならば、パーヴォの演奏がマーラーと異なり、決して前を急ぐ演奏でなかったことも幸いしました。1曲1曲をていねいに歌い、しかもどの曲も最後の一音をいつくしむように終わる姿勢が素晴らしく、深い感動を導きました。名演でした。

 私は会員ではないので普段は行かないのですが、今回は珍しく奮発してB定期も買って行きました。なぜならば後半がワーグナーの「指輪」管弦楽曲集だからです。N響の指輪となれば、東京春祭での4年間をかけた4部作上演が話題になりました。ヤノフスキの指揮も的確だったのでしょう。しかし日本でワーグナーが一番巧いのはやはりN響ですので、この機会を逃したくなかったのです。

 前半は武満徹のバイオリン協奏曲が2曲、すなわち「ノスタルジア」と「遠い呼び声の彼方へ!」でした(ソロは諏訪内晶子)。諏訪内の熱烈なファンではありませんが、それでも彼女のバイオリンが好きなことは前にも書きました。彼女の音はどこまでも大きく豊かで、しかも気品があります。深い内政的なことを求めていないにもかかわらず、自然とその境地に到達できることが彼女の天与の才能だと思います。これはほめ言葉です。もし五嶋みどりや庄司紗矢香であれば神経質に作るであろう難所を、さらりと考えも無く弾いてしまい、しかしそこにさりげない残り香をつけるような演奏は諏訪内の真骨頂です。武満の音楽を演奏することでは負けないN響のバックも素晴らしく、これも名演となりました。

 最高に楽しみにしていた「指輪」の音楽ですが、困ったことになりました。まず冒頭の「ヴォータンの告別と間の炎の音楽」で聞きなれない響きが聞こえてきたからです。

 何だろうこれは、と原因を探して分かりました。本来はバリトンが歌うメロディを、オーボエに吹かせている、そのオーボエを世界的な奏者である吉井に吹かせているのが、あまりにも力強く響くので、告別らしからぬ豪華で巨大な響きになってしまうのです。吉井の凄さは分かっていますが、繊細な告別をこのように処理するパーヴォのやり方に、私はマーラーと同じように疑問を呈するしかありません。

 ここを聞いただけで楽しみだったパーヴォのワーグナーにすっかり興味を失いました。結局音響体だけのワーグナーでしかないのかと。N響の壮麗な響きだけがあり、しかしそこにワーグナーらしい深さの無い演奏は、ワグネリアンである私には残念でなりません。

 大体が、指輪音楽集の最後に持ってくる曲が、ブリュンヒルデの自己犠牲と終曲ではなく、4部作の最初のワルハラ城への入城で締めくくるなどとは聞いたことがありません。パーヴォのワーグナーにははっきりとダメだしをしておきたいと思います。

 このように2月のパーヴォのN響の演奏会は、極めて玉石混交の困惑する月となりました。素晴らしかったフォーレ、サン=サーンス、武満。 まったく感心しなかったマーラーとワーグナー。


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 いま、手元で聞いているのは
  「亡き子をしのぶ歌」(マーラー)
  交響詩「死と変容」(R.シュトラウス)
   チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィル

  ・・・珍しい彼のマーラー。
  しかしそれ以上に「死と変容」が絶品!

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January 26, 2018

●豊麗堅牢なショスタコ 広上/N響 2018.01.26.

 1月のN響は広上淳一とウンジャン。いずれも手堅い音楽家たちです。上旬のC定期は広上の指揮でバーンスタインの「スラヴァ!」「セレナード」、ショスタコーヴィチの交響曲第5番という、広上のある一面をよく表すプログラム。

 バーンスタインが亡くなって早や30年近く。私は彼の指揮した音楽は好きですが、作曲したものはあまり好きではないかも。「スラヴァ!」は初めて聞きましたが、うるさい音楽で、しかもそのうるささの中でいくつもの録音音声が飛び交うやかましさ。私は苦手です。

 逆に「セレナード」は好きな部類の音楽。弦楽器・打楽器をバックにした一種のバイオリン協奏曲ですが、バーンスタインの歌謡性の美しさを示す良い曲です。ソロは久しぶりに聞く五嶋龍。すっかり大人の男になって、鋼のようでいながら繊細なバイオリンを聞かせてくれ、これは聞きものでした。初演のアイザック・スターンの録音を何度も思い出しましたが、スターンの上をいく叙情的な演奏だったと思います。

 そういえば思い出しました。姉の五嶋みどりがバーンスタイン指揮NYPのバックでこれを弾いたのが、確か13歳ぐらいの少女のころ。しかも激しく弾いている途中で弦が切れてしまい、みどりは顔色一つ変えずにすぐにコンサートマスターと楽器を交換し(彼女の楽器はまだ分数楽器で、コンマスの楽器はもちろんフルサイズ)、こともなげに最後まで弾き切ったというエピソードを。バーンスタインは感激してみどりを抱きしめたそうですが、オケも聴衆もあまりの超人ぶりにあっけにとられたのだとか。あれからもすでに40年近く。

 さて、後半のショスタコは、広上の強さと繊細さと常識さのあらゆる要素が出た名演となりました。

 まずは大変に力強い。冒頭の低弦からしてすさまじい迫力。この曲の激しい部分をより激しく演奏し、聴衆を満足させます。

 しかし繊細。力強い場面も弱音の場面も、どこをとっても美しい音。彼の指揮がにぎりこぶしを強烈に上下するような独特のものなのに、出てくる音楽は美しい。

 そして言葉は悪いですが常識的。激しさも繊細さも人一倍やりながらも、どこかで曲の構造や品格を壊さないだけの矜持ある音楽が支配して、よくありがちな狂ったような演奏にはならない。

 したがって、ショスタコーヴィチがこの曲に込めたかもしれない怒りや悲しさや皮肉やイデオロギーは過剰にならず、とりあえずそばに置いての、純音楽の交響曲の美しさと豊麗さが目立つ立派な演奏となりました。

 私は広上こそ、日本を代表する指揮者だと思っています。音楽監督である京都市響で忙しそうですが、東京でももっともっと指揮してほしいと思っています。


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・・・今手元で聞いているのは

 楽劇「パルジファル」(ワーグナー)
  ヴィットリオ・グイ指揮ローマRAI 1950年ライヴ
   マリア・カラス(クンドリー)、クリストフ他

    (クンドリーも指揮も素晴らしい!)

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January 23, 2018

●太田弦、東フィルで指揮デビュー 2018.01.23.

 2015年の東京国際音楽コンクール指揮部門第2位の俊英、太田弦が、東フィルのデビューをオペラシティで飾りました。第74回「休日の午後のコンサート」です。どちらかというとクラシックの初心者向けに、指揮者が解説をしながら名曲の一部を披露する、楽しいコンサートです。

 ルスランとリュドミラ、ファランドール、ベト7の終楽章、チャイ4の終楽章、悲愴の第3楽章、ボレロという華やか過ぎるぐらいのコンサートでした。題名を「オーケストラクライマックス」とし、オーケストラ演奏の中でも特に派手なものを集めたものです。

 太田は指揮棒を使わず、アインザッツでは手のひらを手刀のようにぴんと上に伸ばした状態から、むんと振り下ろすのが特徴です。少年のように小柄な彼が背筋をぴんと伸ばしたあと、大きく振り下ろすその姿はなかなか男らしいものです。しかしそこはさすがに指揮者、速過ぎず遅過ぎない手の速さでオケを導きます。ために見た目の大きさに対してオーケストラは汚い音を出すことなく余裕で豊かな響きを作ります。

 23歳、藝大の大学院生、見た目はそれよりも若くほぼ少年。ところが音楽は意外と老成しています。たっぷりとオケを鳴らすのに、そこに焦りや姑息さが全く無く、しかも音色の重ねあいに工夫が見られてなかなか美しい演奏ばかりです。

 もちろんこれには東フィルの好演もあるでしょう。彼らには弾き慣れた音楽とはいえ、倍音の多い響きが美しく(私は東京のプロのオケの中で、東フィルほど倍音の豊かさを感じるオケは他にありません)、タケミツメモリアル大ホールに豊麗さがこだまします。欲を言えばドイツ音楽やロシア音楽ではもう少しガブっとした低音が欲しいですが、これはこのホールの特性のせいも多分にありますので気にしないことにしましょう。

 なお司会者として朝岡聡が太田から話を聞きだす形で進みましたが、朝岡も久しぶりに見たらすっかりオヤジになっていて、オヤジが小僧を軽くいびるような場面が見られました。初心者には受けるやりかたかもしれませんが、私のような高年者には何となく敬遠したい品の無さがありました。昔の朝岡のスマートで真摯な司会は好ましかったのに。

 それはともかく、太田の美しく豊麗な音楽を久しぶりに垣間見ることができて満足です。ただ今日の音楽は私にはうるさい音楽でした(彼の責任ではないのは分かってますが)。

 私は個人的には彼のトリスタンとイゾルデ、ブラ3といういずれも名演を味わっています。彼はロシアの派手な音楽が好きなようですが、私はどうしてどうして、彼こそドイツ音楽の内省的な音楽こそ才能を発揮していると思ってます。次回はそんな曲を聞いてみたいものです。


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・・・今手元で鳴っているのは

   ピアノ協奏曲(グリーグ)
    中村紘子(P)
     大町陽一郎指揮 東フィル
    (これも名演。大町は後年、小澤征爾の華やかさに隠れてしまったが、
     こちらの方が名伯楽と改めて納得)

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January 03, 2018

⚫️最後のデュトワ/N響?超弩級の火の鳥を残して・・2018.01.03.

デュトワがスキャンダルにさらされているのは残念なことです。彼のその傾向は音楽関係者では古くから有名なことであり、自業自得でもあり、好ましいことでは無いのは無論です。筆者自身も貞操観念の強いタイプなので、事案そのものは大嫌いですが、このことによって彼の音楽が突徐としてこれから聞けなくなってしまうのもまた、大変残念なことです。

12月のN響は毎年デュトワの月間であり、首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィ以上に素晴らしい名演を聞かせてくれる月でした。このところデュトワは老境に入り、やりのこしたことをやってるような印象がありました。滅多に聞けなかったベートーヴェンやメンデルスゾーン、果てはマーラーに至るまで、心残りはやってしまおうみたいな意気を感じたものです。

筆者は30年も前にデュトワのベートーヴェンを聞いて辟易して以来、そちらの方は敬遠していましたが、マーラーは8番の駄演と3番の超名演を聞いて、いろいろな意味でうなったものです。

さて先月2017年12月はデュトワらしいラヴェルはパスし、大好きなサン=サーンスのピアノ協奏曲第5番「エジプト風」(ソロは懐しいティボーデ)、火の鳥全曲というプログラムに行きました。

サン=サーンスは少し前に河村尚子とパーヴォの2番の演奏の妙な力感に疑問を呈しましたが、この日のティボーデとデュトワは、おしゃれな感覚といい、異国情緒といい、適度な深さといい、まさに完璧な5番でした。サン=サーンスがここまで完璧なのも珍しいことです。昔、目の覚めるような貴公子だったティボーデはそれなりにふけていましたが、相変わらずのジェントルマンぶり。ブーニン消えてティボーデ残れり、か。時の流れを感じます。

火の鳥は・・・ちょっと言葉が出てこないぐらいです。

筆者はかつてロト指揮都響の火の鳥全曲演奏を「世紀の名演か」と書きましたが、それを否定するものではないものの、あるいはそれ以上のものがデュトワとN響によってもたらされたような気がします。

すべての音のバランスが完璧。微弱音から強奏までのダイナミックレンジの広さ、そして1つ1つの音が持つ意味深さなど、ありとあらゆる要素がぴたりとはまった、超弩級の名演となりました。おそらくこれを超える緻密な演奏は、現在の世界では聞けないでしょう。

思うに、ロトの演奏が人をおどろかせるような刺激に満ちた演奏であった(またそれが魅力であった)のに対し、デュトワの演奏は現代のオーケストラ技術の粋を尽くし、人がこうあってほしいと思う演奏を完璧にやり遂げた、そんな最高の演奏ではなかったかと思います。いやはや、すごい演奏でした。

デュトワももはや表舞台に立つことはないでしょう。とすれば、これが私の図らずも最後のデュトワ詣でになったようです。予定されていたTV放送も消滅したようですし、最高の火の鳥を耳に残していった彼も、日本人の、いや世界中の前から姿を消すことになるのでしょうね。もう少し彼の生演奏を聴いていたかったものです。非常に残念です。


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November 25, 2017

⚫️漆原朝子とヴォルフの素晴らしいエルガー (CD) 2017.11.25.

最近はダウンロードが便利で経済的で、すっかりダウンロード派になってしまった私ですが、まだダウンロードでは入手出来ないような盤はパッケージで購入します。

タワーレコードで物色していたら、意外なものを見つけました。ジョゼフ・ヴォルフ指揮兵庫県立文化センター管弦楽団、漆原朝子の独奏で、エルガーのバイオリン協奏曲と、交響曲第1番というCDです。今年2017年のライヴ録音です。大曲2つだけに2枚組、しかもライヴ録音というのはエルガーのバイオリン協奏曲では珍しい。

途中の楽章間も含めれば1時間に達しようかというバイオリン協奏曲中の最大規模の大曲、後半になれば疲れてミスも多くなるこの曲を、ライヴで出そうというその意気込みが素晴らしい。漆原朝子といえば私たちの世代にとってはアイドルバイオリニスト姉妹の妹。愛らしかった彼女もたぶん50歳ほどか。油ののった演奏家になったことでしょう。そんな彼女の最近を聞いてみたくて購入しました。

まずはオケ。東京に住む私にとって、このオケは縁遠いのですが、数年前に生で一度聞いたときは、たしか金聖響指揮でブルックナーの7番でした。そしてがっかりしたのです。ブルックナー独特の深い響きが作られず、とりあえず音程とリズムと強弱は楽譜通りですみたいな割り切れた響きだったのです。これはオケが優秀でしかも若い時に見られる現象です。

楽譜しか頼るものがない、または楽譜以外に何物も必要としない、優秀な若者にありがちです。管打楽器ならそれも良いかもしれませんが、弦楽器群はそれではオケとはいえません。十分な(数十年ぐらい)時間をかけて熟成されるのが弦楽器群の響きだからです。残念ながらこのオケにはまだ熟成という言葉は遠い未来でしょう。

今回のCD、エルガーの交響曲第1番を最初に聞くとその印象があり、しまった、わざわざ高いお金を出して買うんではなかった、と後悔が湧き起こりました。

しかしよく聞いてみると、そのようなオケの響きの浅薄さとは裏腹に、聞こえて来る音楽が意外にも深いことに気づきます。強弱が自然で、しかも深い呼吸を伴っており、わざとらしさが全く無いにも関わらず、コーダに向かって徐々に音楽が高揚していく様は、とてもブルックナー7番の比ではありません。まさにエルガーの音楽の真骨頂を見せてくれています。

これはひとえに指揮者の優秀さの賜物です。後述のバイオリン協奏曲ともども、こんな見事なエルガーを聞かせてくれるスペシャリスト、ヴォルフとは何者なのでしょうか。実は彼は名指揮者、コリン・デイヴィスの息子だそうです。クライバー、ヤンソンス、スラトキン、ジョルダンと、最近の2世指揮者は父親を超える能力を持つ人が多いので、もしかするとヴォルフもそうなのかもしれません。未来は分からなくても、この2枚組のエルガーは大変に優秀な演奏で、びっくりさせられました。

漆原朝子についても書いておかなかければなりません。実はそれほど期待していなかったのです(それだけエルガーのバイオリン協奏曲は難曲です)が、1度聞いただけでは気づかなかったものの、2度3度と聞くうちに、彼女のこの曲にこめた繊細さと熱い魂がひたひたと心を打つようになりました。すごい入れ込みです。徹底的に研究したのでしょう、わずかな強弱の違いや音色、表現の隅々に至るまで、磨き抜かれた玉のような独奏で、これには圧倒されました。

なるほど、素晴らしいライヴです。日本でこのような質の高いエルガーのライヴが得られるとは思いもよりませんでした。漆原朝子に、そしてジョゼフ・ヴォルフに感謝です。


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November 18, 2017

⚫️雄渾な名演 ソヒエフ/N響「イワン雷帝」 2017.11.18.

 N響11月のA・C定期はヤノフスキとソヒエフの新旧両世代を代表する指揮者たち。ヤノフスキは堅牢かつ明快なアプローチ、ソヒエフは自然な呼吸感と丁寧な音楽づくりがもたらす最終的な白熱が魅力です。



 今月はヤノフスキは筆者は体調を崩してパスしましたが、ソヒエフは大変珍しい大曲1曲のみという意欲的なプログラムなので、万難を排して参りました。それはプロコフィエフのカンタータ「イワン雷帝」だったのです。



 イワン雷帝は実在の人物。ロシア最初の皇帝で、その容赦ない過酷な仕打ちから雷帝と呼ばれました。その生涯を映画化したのが名匠のエイゼンシュテイン、音楽をつけたのが当時存命だったプロコフィエフです。映画は3部作で企画されましたが、途中の第2部は上映をソヴィエト当局が許可せず、未完に終わりました。プロコフィエフの死後、初演指揮者が映画音楽をカンタータにまとめたのが、この作品です。



 筆者は40年ほど前に、ムーティの録音で、この珍しい曲の存在を知りました。1回しか聞けなかったので「何だか大げさな曲だなあ」というぐらいの印象しかありませんでした。



 前回のN響への登場以来、私はソヒエフという人はもしかしたら大器かもしれないと思っておりました。長らく新譜を待っていたところに昨年、満を持して発売されたのが、この「イワン雷帝」です。ベルリン・ドイツ交響楽団の演奏です。



  このCDの演奏は素晴らしかった。遅めのテンポで美しさと壮大さをじっくりと歌い上げ、私は一気にこの曲のファンになりました。特に後半、ロシアのテーマ?である例のメロディ(1812年でも使われている美しいテーマ)が何度も鳴り響くのは感動的です。



  そんなソヒエフが自信をもっているこの曲の演奏、N響と演奏しても悪かろうはずはありません。近年のN響は金管の改善と首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィの登場で、世界有数のオケになったと私は思っています。今日の演奏も、おそらく実力はCDのベルリン・ドイツ交響楽団よりも上だと思います。



  私は聞きながら、「ああ、東京の演奏会だ」といまさらながらに自分の境遇に感謝します。私の出身の地方では、このようなプログラムは夢のまた夢でしょう。プロコフィエフの珍しい大曲をいともかんたんに演奏会に乗せ、しかもそのレベルは世界的レベルです。壮大なコーダを聞きながら、私は至福の思いを味わいました。未聴の方はぜひ放送で聞いていただきたい名演でした。









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November 03, 2017

⚫️暗くて硬い伝統の響き コヴァーチュ指揮ブダペスト・フィル 2017.11.03.

ブダペスト・フィルの演奏会を聞きました。非公開ですのでこれから公開される日本公演と曲が同じかどうか分かりませんが、こうもり序曲、モーツァルトのジュピター、ベートーヴェンの英雄です。指揮はヤーノシュ・コヴァーチュ。都合で前半のみの鑑賞でした。

最初のこうもりの頭の音からして、非常に硬質な響きが広がります。たまたま聞いたホールが残響の無いホールのせいもありますが、かなりシャープな響きです。アメリカ的などこまでも透明な響きとは違い、重みを伴った暗くてシャープな響きです。

これを聞いて思い出しました。昔、オーストリアの田舎町でこのオーケストラを聞いたことを。当時、東西の壁が崩れたばかりで交流とお金のために西側に出てきたのでしょうが、西側のきらびやかなオーケストラとのあまりの響きの違い、50年ほど時間が逆転したような錯覚に驚いたものです。それはブダペストのオケだけではなく、当時の東欧のすべてのオーケストラに共通したことでしたが。

その後、それらの多くが響きを変えてきました。別に西側の真似をしなくても良かったのですが、華やかに憧れるのは世の常なのでしょうか、響きが明るくなり、かつての暗く重い響きが影をひそめてきました。ゲヴァントハウス管弦楽団などもそのひとつかもしれません。

しかし今日のブダペスト・フィルは、重苦しさこそ無くなったものの、硬く暗く、そして何よりハンガリーらしくシャープです。これこそ伝統の響きなのでしょう。こうもりだからといって妙にウィーン風に浮かれることなく、びしっと決めてくるところが面白いです。

この指揮者は初めて聞きましたがかなりの年配でもあり、しかも的確で豊かな音楽性を持って居ます。それは続くジュピターで発揮されました。どこまでも生真面目で浮いたところがないのに、最後のコーダに向かって音楽が燃焼していくさまは、名人芸と言えました。

久しぶりに固有の響きの顕著なオケに出会い、かつ丁寧で優秀な指揮者で豊かな音楽が聞けました。こうしたオケの響きは私好みではありませんが貴重です。これからも何とか維持してもらいたいものです。



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October 24, 2017

⚫️不安定なロマンチシズム エッシェンバッハ/N響 2017.10.24.

続く10月のC定期の指揮者はクリストフ・エッシェンバッハ。今や押しも押されぬ大指揮者です。元々はピアニスト出身であり、いつのころからか指揮者に転向してあちこちの常任指揮者となり、一時期は世界最高峰のフィラデルフィア管弦楽団の常任指揮者まで務めた人です。

彼が指揮者に転向したのが1970年代前半だそうですから、ちょうど私が音楽を聴き始めたころと一致します。当時はエッシェンバッハといえば何といってもカラヤンと共演するほどのピアニスト、そのエッシェンバッハが慣れないオーケストラの指揮もやるなんて、と苦々しく思ったことを思い出しました。

 それから幾星霜、実は私はエッシェンバッハの実演の指揮をいまだかつて聞いたことがありませんでした。今回が初めてです。しかしTVではこれまでにたくさんの放送があり、それらを聞いてきました。聞いて思ったのは「やはりピアニスト上がりの指揮者は今ひとつだなあ」ということでした。

 彼の指揮姿は無骨です。あれで合わせていけるのはかなり上手いプロのオーケストラだけです。でもそんなことは重要なことではありません。私が彼のマーラーやシュトラウスを聞いて思ったことは、「いったい何をいいたいのか、ちっともわからない」ということでした。明快な主張の聞ける演奏は、それが私の好みに合おうと合うまいと、一定の評価ができるのですが、エッシェンバッハの場合は剛毅でもなく、かといって優柔不断でもなく、爽やかでもなく、おどろおどろしくもなく、毎回の印象がころころと変わって落ち着かないので、判断を留保してきました。

 さて、そんなエッシェンバッハでも今やウィーン・フィルに呼ばれるほどの指揮者になりました。とすれば、何か私には感じ取れない良さがあるはずです。今回はそれを確かめたくて楽しみにしていました。

 曲はブラームスの第3交響曲と第2交響曲という、対照的な曲2つ。一方は人生の曲がり角に差し掛かり苦闘しながら突き進む中高年の姿でしょうし、もう一方は若人の胸弾む人生の華の風景です。

 まず第3交響曲です。そのロマンチシズムに驚きました。流麗に流れていく中で、粘るところは徹底的に粘ります。第3楽章など、聞いたこともないような遅いテンポで、まるでムード音楽です。なるほど、これが彼の音楽か。今どきの演奏家には(特に高齢の指揮者には)珍しい過剰なロマンチックな音楽です。ある意味では聞きごたえがあります。

 続いて第2交響曲。こちらは意図的に表現を変えたのでしょう。粘っても爽やか、一気呵成にコーダまで突き進みます。しかし随所にアゴーギクや楽譜に指定のない弱音をちりばめ、立体的に面白く聞かせてくれます。演奏効果は抜群で、聴衆は長い拍手を送りました。

 しかし、私は考えます。なるほど、面白い演奏ではあるけれど、王道ではないな、と。ドイツ音楽の最重鎮であるブラームスの音楽を、面白いだけに終わらせてしまっては、却って軽はずみではないかと。時代が変わったとはいえ、このような表現に頼るのは私は好みません。もっと堂々と正論で来てほしかった。

 それに残念なことに、彼の音楽づくりが、骨のない土台の上に築かれているものですから、これが私を不安にさせる要素だと気づきました。例えば第3交響曲で頻繁に出てくる付点の音型をいい加減に処理するものですから、ドイツ音楽に聞こえなくなる、国籍不明のがしゃがしゃした音楽の中に豊麗なロマンチシズムだけが聞こえてくる、この違和感。せめてこの付点をしっかりそろえるだけでも、ブラームスらしくなるのに。

 聴衆の大拍手や、N響団員の喜びぶりなどから、エッシェンバッハはやはり受け入れられているのだろうと思いましたが、私にはかねてから思っていた不安感を再確認できた、そんな演奏会でした。真面目で稀有な指揮者のようですが、アシュケナージと同様にどうも私は好きになれそうにないな、と感じました。



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October 23, 2017

⚫️下野/N響 落ち着きあるベルクが良し 2017.10.23.

N響定期の新シーズン、9月はせっかくのパーヴォの月間でしたが多忙で1度も聞けず(レニングラードは名演だったと聞きましたがさもありなんと思いました)残念でしたが、10月はきちんとN響の2つの定期(A定期・C定期)を聞けました。

A定期は下野竜也の指揮でモーツァルトのあまり演奏されない序曲2つとベルクの曲を2つ。モーツァルトは「イドメネオ」序曲と、「皇帝ティトゥスの慈悲」序曲。2曲めはスピード感と表現のバランスのとれた名演だったと思います

私としてはベルクのヴァイオリン協奏曲を久しぶりに生で聞けるのが嬉しいところです。ヴァイオリンのソロは韓国系ドイツ人の若手クララ・ジュミ=カン。仙台のコンクールの受賞者だそうで、私は初めて聞きました。

とにかく背の高い女性で、低い下野と並ぶとその差が歴然。同じアジア系としては意表を突かれる背の高さでしたが、音そのものは繊細で、ベルクの儚い音楽を的確に届けてくれました。久しぶりにこの曲を堪能しました。

後半は「ルル」組曲。美しいがしんどい音楽です。私もナマで聞くのもずいぶん久しぶりなような。多分、新国立劇場で佐藤しのぶがルルを歌ったときに聞いて以来でしょう。

あの時はオケは悪くなかったが、何せルルがヒステリックで(難しいのは分かりますが)落ち着いて聞けなかったのを思い出しました。今日のルルを歌うのはモイッツァ。落ち着いた歌唱で安心できます。

下野はおそらくベルクの音楽に親近感があるのでしょう。なかなかうまいな、どこがうまいのだろうと考えていたら、金管の扱いがうまいのに気がつきました。ベルクの楽譜を楽譜通りに鳴らそうとすると、どうしてもヒステリックになりがちなのを、うまくリラックスさせて吹かせるので、退廃的な感じが出て良かったです。

が、そのためにアンサンブルとしてはややゆるみがちでした。ただ私はアンサンブルがいつもいつも鉄壁である必要はないと思っています。N響の場合は豊麗な弦が屋台骨となっていますので、それを中心に全体としてグラマラスな演奏を聴かせてくれれば満足です。かつての日本のオケはアンサンブルの能力=オケの能力と思っていたようですが、今、そんなことを言う人は居ません。ようやく日本でもオケの鑑賞がうまく機能するようになったなと感じる今日この頃です。今日の演奏も、この金管の落ち着きが期せずしてベルクの生地ウィーン風で良かったです。

モーツァルトとベルクばかりで定期をまとめるなんて、東京でなければできないこと。ルルを聞くなんて、と少し忌避感もありましたが、まずは充実した演奏会でほっとしました。


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September 10, 2017

⚫️泣けました諸井の第3交響曲 下野/東フィル 2017.09.10.

今から約40年前、高校生の私はラジオから流れたある曲に釘付けになりました。すぐにエアチェックもしました(エアチェックというのは今の人にはわからないでしょうが、インターネットも無くお金もなかった昔は、ラジオから流れる音楽をカセットテープに録音して何度も聞き直したものです)。

その曲とは、諸井三郎作曲の交響曲第3番。演奏は山田一雄指揮の、確か東京都交響楽団。その前年に亡くなった諸井三郎を偲んでの作品集の演奏会のライブ録音をNHKが放送したのでした。交響曲の前にピアノ協奏曲第2番の初演も園田高弘の独奏で行われていました。

交響曲第3番は、1944年、日本の敗戦も間近な頃に書かれた、ある種の諦念に満ちた音楽でありながら、第3楽章(終楽章)アダージョの後半で現れるトランクィロの崇高なメロディは汎人類的な祈りと救済を示していて、初めて聞いた私にもとても感動的だったのです。

音の悪いノイズだらけのカセットテープでしたが、高校の友人に押し付けては「いい曲だろ」と同意を求めましたが、不協和音の多い一種の現代音楽でもあり、もともとクラシック音楽に興味のない友人たちは「ん?」という無反応この上ないもので、私は自分の感性がおかしいのかとすっかり自信を無くしてしまいました。

大学に入って少しはレコードも買えるようになり、諸井三郎の曲を探してみましたが、交響曲第2番と交響曲第4番はあって購入したものの大して感興を覚えず、交響曲第3番は存在すら日本で忘れられているようで、いつかもう一度聞きたいと思いながらもずっと会えずにいました。そのうちにテープを処分する時期が来て音源も失われて幾星霜が過ぎました。

さて、私を驚愕させたのは数年前、ナクソスが出した日本音楽選集というCDシリーズの中で、湯浅卓夫が指揮する「交響曲第3番」が史上初めてリリースされたからです。狂喜して購入した私は、良い音で聴くこの曲に改めて惚れ直したのです。解説も豊富で、片山杜秀という碩学の徒が書いたことを知りました。片山のことはここで初めて知りましたが、諸井三郎の交響曲第3番を私以外に熱狂的に愛する人がいたことに心強い思いもしました。

それに影響されたのか、少し後になって、私が愛して止まなかった山田一雄指揮の諸井三郎の交響曲第3番のライブ録音も、CDとして発売され、これまた私を狂喜させたものです(今では廃盤ですが)。

さて、現在高年となった私は、若い頃に影響された音楽に出会えると、生きていて良かったと素直に思えるのですが、この交響曲第3番に会える日がついに来ました。2017年9月、片山杜秀プロデュースで、新装なったサントリーホールのサマーフェスティバル、戦前戦中の日本のクラシック音楽を紹介するその最後の曲として選ばれました。ついに、ついにこの曲をナマで聴ける、それは私にとって、マーラーの8番を自ら演奏することに匹敵するほどの大事件です。

今日は珍しく早めにサントリーホールに行きました。すべての用事を断って今日に備えました。今日の曲たちは戦中に書かれた日本のオーケストラ音楽でしたが、前半の尾高尚忠、山田一雄の曲もなかなか良かったですし、小山実稚恵を独奏に迎えた伊福部昭のピアノ協奏曲(交響曲)も大変に長大でしかも充実した演奏で圧倒されました。しかし私にとっての今日の主役は、プログラム最後に置かれた諸井三郎の交響曲第3番です。

ナマで聴くということは、やはりラジオで聴くよりも、レコードやCDで聴くよりも1000倍も違う驚きと発見に満ちています。スコアを持たずにいた私は、今日、この交響曲がパイプオルガン付きであることをまず発見し驚愕します。そのことがこの曲のブルックナー風の長い和音の響きを生み出すことに思いが至りました。

冒頭の不思議な和音が鳴り始めると、この曲がわけても容易でない緊張感に満ちていることに気付かされます。先行した尾高や山田、伊福部と比較しても、当時の世相をもっとも色濃く反映した、不安の交響曲であることがひしひしと感じられます。第1楽章のなんとも言えない不遇さと悲愴感、第2楽章のおどけてしかも悲しいオスティナート(速い!今まで聞いた演奏の中で最も速い)を経て、いよいよ第3楽章です。

今日の演奏は下野竜也指揮の東京フィルです。私は下野という人は非常にがっちりとした堅牢な音楽を作る人だと思っていますので、現代音楽には適しているものの、今日わたしが期待するような祈りと救済を描いてくれるかは不安があります。それにしても東フィルの演奏の美しいこと! コンマスの三浦君率いる美麗な弦楽器群と個性的な管楽器群の生み出すハーモニーは、おそらく作曲者が思い描いた70年前の響きをはるかに凌駕したこととおもいます。山田一雄指揮の40年前と比較しても、東フィルも日本のオーケストラ全体も比較にならないぐらい巧く美しくなったものです。

そして訪れたトランクィロ。重苦しい戦時下の日本に静かに降りて来た天女のような美しい旋律。はたまたそれは死を告げる戦乙女なのか。作曲当時の諸井にはわからなかったはずです。それでも作曲家は救いを描かずにはいられなかったのか。この作曲後に首都圏だけでも数十万の民間人の犠牲者が出ました。図らずもこのメロディは鎮魂のメロディ、レクイエムに聞こえてしまうのです。

しかしそれでもわたしは、この曲が諸井の目指した純音楽であろうとわたしの好きな標題音楽風であろうと、大した違いではない、と思います。73年前に書かれた日本人によるヨーロッパ風の交響曲は、時を超えて平和この上ない日本で、しかも半島から呼び覚まされるかもしれない核戦争の恐怖に怯えながらも聴衆の前に再び40年ぶりに姿を見せ、驚くべき深さをもたらしてくれたからです。

終楽章の最後の重い響きがやんでも、誰もすぐには拍手をしません。深い感動に包まれています。私はといえば、両眼から涙がこぼれ落ちてしかたがありませんでした。見ればあの朴念仁とした指揮者の下野も涙がこぼれているようです。私は下野を誤解していたかもしれません。今日の下野は堅牢でありながら、この曲のロマンティシズムを十二分に描いて見せ、共感の強さを見せてくれました。私は涙が止まりません。

私にとってはこの40年の、何かが満たされた気持ちでいっぱいです。と同時に、これを実現してくれた片山とサントリーホール、下野と東フィルに感謝の気持ちで一杯です。もちろん諸井三郎にも。できれば日本人の曲の素晴らしさが、そしてこの演奏の重みが、次の世代に引き継がれますように。今日はいい日でした。



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August 06, 2017

⚫️6月のパーヴォとN響、刺激的ですが 2017.08.06.

かなり旧聞になりましたが、6月のN響は首席指揮者のパーヴォ・ヤルヴィの月間。これまで基本的にパーヴォを褒めてきた私としては、記録を残すべきだと思いたちました。

AとCの2つのプログラムを聞きました。その中で心に残ったことをいくつか。

Aプロは珍しくオールフレンチものでした。その中で際立ったのは、私もナマで聞くのは随分と久しぶりとなるサン=サーンスのピアノ協奏曲第2番。独奏は日本を代表する名女流、河村尚子。河村はこの目立たぬ名曲をかなり大きな振幅のダイナミズムで弾き聴衆を満足させましたが、サン=サーンス好きの私としては「やり過ぎ」感もないではありません。

一般に演奏家が隠れた名曲を世に出そうとすると、聴衆にわかってほしいために表情付けがオーバーになりがちですが、この日の河村もその感を持ちました。もともと単純な曲ではありますが、もう少しおしゃれな感覚が欲しかったかな、と思います。できれば第2番のような曲でなく、第4番・第5番のような本当の名曲を聞かせて欲しかった。

Aプロ後半はラヴェル特集で、優雅で感傷的なワルツと「ダフニスとクロエ」第2組曲。パーヴォの指揮でのラヴェルは初めてだったので、どのような演奏になるかと楽しみでしたが、まずは音が大きい! いやこれは決して褒め言葉で書いているのではありません。

フォルティッシモの部分ではNHKホールを揺るがすような大音響になりますし、聴衆には大受けでしたが、私は首を傾げてしまいました。これはラヴェルなのかしらん。それとも私の経験が浅くてそう思うのだけでしょうか。特にダフニスとクロエの凄まじさときたら!

パーヴォはアメリカ的な指揮者だと私は思っています。生まれこそエストニアですが、音楽教育と初期のキャリアはすべてアメリカです。アメリカのスーパーパワーな交響楽団とともに成長してきました。このラヴェルは繊細であると同時にパワフルすぎる演奏であり、いかにもアメリカ人が喜びそうな演奏だなと感じました。・・・もっとも昨今の日本人も感性が摩滅してしまい、このような演奏を喜ぶ人が増えたのは残念なことですが。

Cプロはシューマンのゲノヴェーヴァ序曲、同じくチェロ協奏曲(独奏はテツラフ)、シューベルトの交響曲第8番ハ長調というオールドイツもの、しかも前期ロマン派という渋いもの。

シューマンは私の苦手とする作曲家。オーケストレーションが下手なので、何を聞いても音が団子のように聞こえてきて、オーケストラの繊細さの醍醐味が伝わらない作曲家だと思います。

しかしパーヴォの力強さと強引なカンタービレは有効で、これらの曲を面白くは聞かせてくれます。テツラフの独奏は初めて聞きましたが、こちらは紛れもなく天才の技。思い切った大きな音から繊細な微音まで、ねっとりとした美しい音がホールいっぱいに広がります。これから注目したいチェリストです。

シューベルトの大ハ長調は、ドイツ音楽の中でももっとも演奏困難な曲だと私は思っています。冒頭のホルンのテーマとその展開があまりに美しいので、いろんな人がこぞって取り上げますが、たいていの人は失敗に終わります。それはシューベルトの歌謡性とオーケストレーションの罠とのバランスがうまくいかないからです。

シューベルトはここで後のブルックナーにつながるような、パウゼの音楽(オーケストレーション)を書いています。テーマ・パウゼ・(第2)テーマ。このパウゼが曲者で、多くの人はこれを意識して演奏するので、どうしても音楽が縦割りの響きになります。

ところがこの曲は、パウゼの中に聞こえない音を見出して歌謡性につなげる技や感性が必要で、それが成し遂げられる人が滅多にいないと私は感じています。つまり演奏がドンシャリなものになっていしまうのです。

ではパーヴォはどうでしょうか。実は私は第1楽章は大変に感動しました。パーヴォはそのパウゼをほとんど無視して音楽をすべてにつなげてしまいました。この思い切りの良さに感心し、しかもパーヴォの特徴である筋肉質なカンタービレをぐいぐいと多用するので、非常にテンポの速くしかも迫力のある第1楽章になったからです。その感動は久しぶりに鳥肌がたつようなものでした。

しかし、その後が良くない。パーヴォの工夫は(あるいは天性か)、第1楽章では見事に結実したのですが、同じことを第2・第3・第4楽章にまで行ってしまいました。こうなると、この複雑な曲が複雑さを失って、ただのバカ騒ぎの音楽にまで落ちてしまったのです。

この曲は本当に難しい。フルトヴェングラー、ワルター、ベームだけが高みに達することができました。人は私のことを過去の巨匠にのみ依存すると笑いますが、過去の巨匠で録音が残っている人は、やはりそれだけの偉大な業績を残したのだと私は思います。

今回のチクルスで、パーヴォの天才ぶりに出会えた曲はデュティーユの「メタボール」(演奏は良いが昔からつまらん曲です)、「ゲノヴェーヴァ」、シューベルトの大ハ長調の第1楽章。また新シーズンの彼に期待したいです。

室内楽やピアノの話題は私のもう一つのブログヘどうぞ

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June 16, 2017

⚫️最近に聞いたCDから 2017.06.16.

最近聞いたCDの雑感を少し。

⚫️交響曲第7番(マーラー)
2月に自分がマーラーの7番を弾いたので、しばらくは7番ばかり聞いていた時期がありました。
一番好きなのはテンシュテット指揮ロンドン・フィルの新しい方(ライヴ)。スタジオ録音も良かったのですが、癌をいったん克服して再起した後の演奏は、すべてにスケールが大きく、かつ慈しみが増して感じられます。
既に書いたショルティもまずまず。意外に丁寧にオケと心を通わせるのに感心しました。
クレンペラーは久しぶりに聞きましたが、面白いけれど怪演の部類ですね。
アバドの盤は新しいベルリン・フィルよりも、密度の濃い古いシカゴ響の方が好きです。ベルリン盤はオケの悪い癖(弾きすぎ・やりすぎ)が出ています。
バーンスタイン盤はやはり古いほうが好き。新しい方は綺麗だけどアゴーギクそのものに心が今ひとつ通わず。古いほうは荒っぽいけれど心が伝わってきます。
あと、CDとしてはあまり出回ってませんが、私の心の師である井上喜惟の盤は超絶に遅くて歌心満載の大好きな演奏です。


⚫️交響曲第10番(マーラー)クック版
ダウスゴー指揮シアトル響
クック版の10番が大好きな私。久しぶりの新盤としてガムゾウ盤(ガムゾウ編曲)とダウスゴー盤(クック版)が出ました。ガムゾウ盤はまだ消化できてないのですが、ダウスゴー盤は素晴らしい。終楽章があんなにも熱いなんて! 久しぶりに心が震えました。


⚫️歌劇「サムソンとデリラ」(サン=サーンス)全曲
プレートル指揮パリ・オペラ座管、ゴール、ヴィッカース他 1963年頃
今までバッカナールばかり聞いてきて、真面目にこのオペラ全曲を聞いたことがなかったことに気づき、遅ればせながら全曲を聞きました。地味ながらなんと豊かな音楽。とくに後半が良い。パリのオケは昔はこんなゆるくてしかも音がチャーミングだった(そこが好き)。今はパリ管も他の国のオケと変わらぬつまらないオケになってしまいましたが、このころのフランスのオケはなんとも言えず色っぽいですね。


⚫️ヴァイオリン協奏曲(ブラームス)
オイストラフ(vn)、クレンペラー指揮フランス国立放送管 1960年頃
オイストラフの極め付けの美しい音、クレンペラーのやる気に満ちた指揮、そして先述のフランスのオケの明るさ華やかさ! これこそとびっきりの名盤だと改めて思いました。


⚫️レクイエム(フォーレ)
小澤征爾指揮 ボストン響
長いこと小澤(そしてボストン響)の反対派だった私ですが、久しぶりに名演を1つ見つけました。このコンビの終わりの時期に録音されたレクイエムは、意外にも精神性の高い名演です。同時期に録音されたジュリーニ盤が駄演(彼にしては珍しい)のに対し、何という崇高な世界。小澤/ボストンとしては私には「グレの歌」に次ぐ良いものです。


⚫️交響曲第103番「太鼓連打」104番「ロンドン」
カラヤン指揮ベルリン・フィル
フルトヴェングラーの104番を聞いていたら悪酔いしてしまい、ハイドンはもう少し近代的で、しかもやる気のある演奏が聞きたいなとカラヤン盤を取り出しました。フルオケでの美の極致とはこのことですね。私はハイドンに関してはヨッフムとカラヤンが大好きです。最近の擬似古楽器風な演奏なんか耳にしたくもない、フルオケ派です。晩年にザロモンセットの録音を遺してくれたことに感謝。いつまでも聞いていたくなるカラヤンの名演たち。

⚫️交響曲第1番・第2番(エルガー)
バルビローリ指揮ハレ管弦楽団
久しぶりにバルビローリのエルガーと出会いました。中古盤での掘り出し物です。しかも1番は有名なフィルハーモニア管盤ではなく、その前に録音されたハレ管盤。これが最高に良い。気迫のこもった演奏でぐいぐいと進めてくれます。ハレ管の雑さを補って余りあるバルビローリの熱い熱いエルガーです。



⚫️交響曲第7番(ブルックナー)
テンシュテット指揮 ロンドン・フィル ライヴ
テンシュテットの正規盤のブルックナーは4番が名演、8番は駄演。しかしライヴの8番は最高に素晴らしい演奏。どうもムラがあるようですが、CDとしては唯一?遺されているこの7番の演奏はどうでしょう。
実はテンシュテットのブルックナーの中では最高の演奏です。この素晴らしさは、どう表現すればいいのでしょう。
試しに世評高いヴァント指揮ベルリン・フィルと聴き比べてみましたが、もう一目瞭然というか一聴瞭然。ヴァントがいつでも悠揚迫らず進んでいく、しかし表情や感情が乏しいのに対し、テンシュテットは冒頭からロマンが一杯。しかもこの曲でそれが嫌味にならず、すべてのロマンがぴしりと決まっていく快感。
ああ、何という名演。




・・・これから封を切る楽しみな演奏は・・・

大地の歌(マーラー)
カウフマン(歌)、ノット指揮ウィーン・フィル
カラスのヴェルディアリア集
カラス、レッシーニョ指揮パリ音楽院管
交響曲第2番(エルガー)
スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立響
ワーグナー集
ワルター指揮コロンビア響の
平林氏新リマスタリング ほか

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June 11, 2017

⚫️新進指揮者、太田弦 2017.06.11.

太田弦という新進の指揮者の指揮・指導を受けました。

推定20代前半ながら、すでに藝大在学中に東京国際コンクール指揮者部門で第2位という立派な実績を持つ方です。

指揮は流麗な姿。打点を明確にすることよりは音楽の流れを重視するスタイルと見受けました。小柄な体躯であどけない顔立ちながら、両手をいっぱいに広げてゆっくりと大きく振りかぶる腕は、オーケストラから柔らかくも大きな響きを産み出してくれます。

ウェーバーの「オイリアンテ」序曲は、速いテンポとアンダンテを巧みに使い分けながらも一気呵成な演奏で、このあまり知られていない序曲を魅力的に演奏してくれました。

ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死は、オーケストラを流麗にドライヴしながらも、前奏曲では徐々に迫り来る緊張感を、愛の死ではやがて解き放たれるべき宿命の浄化を先へ先へと期待させてくれる名演でした。

ブラームスの第3交響曲では美しい響きを大事にした演奏で、年齢に似合わずやや深い音楽を聞かせてくれたのが印象的でした。

決して通り一辺倒な流れではなく、目立たぬようにアゴーギクをつけて呼吸感のある演奏をするあたり、なかなかの名指揮者です。また楽譜をよく研究しており、原譜の複写版まで辿って作曲家の意図を汲もうとする姿勢にも好感が持てます。

私たち高年齢の者が接してきた指揮者の多くは、前世紀の習慣を引きずって高圧的な態度をとる場合が多かったのに対し、現代の若手指揮者はこの太田氏も含め、オケに対して実に丁寧に接してくれる方がほとんどです。嬉しくもあり面映ゆくもあります。時代が変わったものだとつくづく思います。

またメトロノームのようなテンポ設定をするのではなく、音楽に合わせて実に美しく呼吸してくれる指揮者が増えてきました。これも好ましいことです。太田氏もその代表格と言えるかもしれません。

太田弦氏、音楽に該博で指揮テクニックもあり、人品卑しからず丁寧で、柔らかいオケ本来の響きを美しく引き出してくれる、まさにミューズの子というのはこのような方を言うのだろうと思った次第です。

これからますます売れっ子になっていくことと思いますが、またご指導を仰ぎたいものだと思いました。



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May 22, 2017

●繊細さと壮大さに改めて感心 フェドセーエフ/N響のボロディン、チャイコ 2017.05.22.

 先週のN響定期は、ここのところ頻繁に訪れているロシアの老匠フェドセーエフ。前回のチャイコフスキーの1812年などでは唖然とするほどのアゴーギクをきかせた名演で、90歳近い人とは思えない生き生きとした演奏に感動したものです。

 今回は日本のオケ相手にしては珍しく交響曲のプログラム。グリンカの珍しい幻想曲「カマリンスカヤ」、ボロディンの第2交響曲、チャイコフスキーの第4交響曲というもの。チャイ4はうるさくて好きでない曲ですが、ボロディンは大好きな曲で楽しみです。

 グリンカのカマリンスカヤは非常に繊細なもの。N響の優秀な弦楽器群が、まるで1本の楽器で弾いているかのような美しい単旋律を何度も歌ってくれて、この曲のはかなさを伝えてくれます。この演奏で私は、「フェドセーエフという人は壮大なカンタービレだけが特徴かと思ったら、随分オケをていねいに作り上げる人なんだな」と感じました。

 続くボロディンの第2交響曲。これは好きな曲だけに、演奏を評価する基準が厳しくなります。いっぱんにプロの指揮者でも、この曲の力強さばかりを強調します。ところがこの曲は日曜作曲家ボロディン独特の、やや稚拙なオーケストレーションを持ち、それを普通に力強く演奏すると、トゥッティのアタックが汚くなりがちで演奏が興ざめしてしまいます。

 フェドセーエフの手にかかると、その強奏が実に美しく、曲本来の美しさがさらに引き立つ名演となりました。外人指揮者の名言として知られる「日本のオケは強く演奏すればするほど倍音の無い汚い音になる」というのを私はさもありなんと長く思っていますが(結局日本人のガンバリズムが曲理解を台無しにしている例です)、今日のボロディンの美しさと力強さのバランスは、やはり並みの指揮者でできることではありません。

 ここで私は、フェドセーエフを勘違いしていたことに気づきました。彼は私が若かった50年前からソ連のオケで活躍し、私はそのLPを聞きもせずに「壮大な音楽ばかりする指揮者なのだろうな」と漠然と思っていました。

 ところが50年にして始めて私が彼についてさとったのは、デュトワなみにオーケストラを微細にコントロールする人なのだということ。そうでなければこのような繊細なボロディンは生まれません。いつも彼の強烈なカンタービレに気をとられていたために、彼のオーケストラビルディングの見事さ繊細さに気がつかなかった私のあさはかさです。

 そんな意味もあって、今日のボロディンの真のクライマックスは、第4楽章ではなくメロディアスで美しく最後は力強かった第3楽章にあったと感じます。

 ・・・さて後半のチャイ4です。私はこの曲が強奏しすぎたときの汚さが大嫌いです。ためにめったに聞くことはないのですが、このようなフェドセーエフの演奏が汚いはずはありません。しかもボロディン以上に表現の幅を広く取ってきました。

  その最たる例は弱音の本当に美しく繊細な響きです。たとえば第1楽章の第2主題、バイオリンが痛切に蠢くところは聞かせどころですが、あえて彼は非常に小さな音で始めます。すると第1楽章のほとんどが小さめの音にならざるをえません。聴衆が耳をそばだてて熱心に聴くその10分後ぐらいから徐々に徐々に音を上げていき、クライマックスではろうろうと歌い上げる、こうなると弱音から強音までの幅がとてつもなく広がって、まるで聞いたこともないような巨大な大伽藍のような音楽に生まれ変わりました。

 これには私は唖然としました。もともと巨大な音楽ですが、それがさらに巨大化し、しかも繊細で美しいという二律背反的なすさまじさを聞かせてくれ、すっかり興奮してしまいました。

 2楽章の美しさ、4楽章の激烈さはもちろんのこと、私がもう一度びっくりしたのは第3楽章です。例のピチカートは多くの人に愛されている音楽ですが、ここをやはり普通の10分の1ぐらいの美弱音にしてしまったので、ホール全体がかすみがかったような不思議な音響に満たされました。もちろん大きく演奏するところは通常の音に戻しますが、その差の大きいこと。音楽が立体化すること。

 こんな個性的なチャイ4は初めて聞きました。チャイ4が好きになるとまではいきませんが、素晴らしく魅力的な演奏にすっかり感心させられました。

 フェドセーエフ、当たり前のことですが、私をうならせるほどの名匠でした。高齢が心配ですが、ますますN響に客演を増やしてほしいものです。

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May 14, 2017

⚫️N響2題/ ルイージのブラ4、スタインバーグのわが祖国 2017.05.14.

最近のN響の演奏会から2つを。

4月はファビオ・ルイージの指揮で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番とブラームスの交響曲第4番という王道の演奏会。独奏はラナというイタリアの新鋭の女流。

このラナという新人はなかなかの曲者で、爽やかなはずのベートーヴェンの第1協奏曲を爽やかに弾くように見せかけて、様々なトリックやさりげないロマン派風の味付けを隠していて、見事。これは大注目のピアニストです。すでにCDも2枚発売されているとのこと。これから熱心に聞いて見たいと思いました。

さてルイージのブラ4。私は二重の意味で危惧を抱いてました。まずはブラ4という選曲。もちろん名曲中の名曲でドイツロマン派最高の交響曲ですが、きちんと表現するのは至難の技。楽譜を音にしただけではブラームスの世界は描けない、典型的な例です。

次にルイージという人。私はルイージという指揮者にあまり好感を抱いていません。イタリア生まれの名指揮者ですが、私には音楽の流れを大事にせず強拍とインテンポのカンタービレばかり気にするトスカニーニの出来損ないのような印象でいました、どの曲を聴いてそう思ったのか忘れましたが、「グレイト」だったか、メトのニーベルングの指環だったか、とにかくいい印象はありません。

ところが今日のブラ4にはびっくり。強拍を重視せず、ゆったりとした流れを大事にした音楽。冒頭のテーマからして美がこぼれ落ちそうなゆっくりした宝石のような演奏で、すっかり感心させられました。ドイツ的というよりはイタリア的な演奏でしたが、細部まで考え抜かれてしかも流れの良い演奏で、これはこれで十分に満足できる演奏でした。ルイージという指揮者を見誤っていたのかもしれないと反省した一夜でした。




5月の最初の定期は、久しぶりに(本当に久しぶりに)ピンカス・スタインバーグの指揮です。スタインバーグは名指揮者ウィリアム・スタインバーグの息子です。父親の演奏ではブルックナーなどでお世話になりましたが、息子のほうは何を指揮しても水準以上だがこれといって印象が少ない何でも屋という印象があります。N響には何度も来ていますが、聞くのは本当に久しぶりです。

曲は「わが祖国」。指揮者の力量の差が出る曲です。面白く聞かせてくれるのか、問題の多いスメタナのオーケストレーションをうまくさばいてくれるのか、そういった意味です。

結論から言うと、これまた水準以上(立派な演奏でした)で、オケも十分に美しく力強く機能的で言うことはないのですが、この人ならではの魅力というには乏しかったかもしれません。

最近、アーノンクール指揮ウィーン・フィルの演奏のCDで「わが祖国」を何度も聴きました。流れの悪い演奏で、ウィーン・フィルの美音に助けられている演奏かとも思いますが、何よりアーノンクールの強靭な意志、すなわちスメタナの書いたものを徹底的に掘り起こして意味のあるものにしたいという欲求は伝わって来ました。嫌いなアーノンクールの研究のために聞いているCDですが、このような意味のはっきりしている演奏は確かに歓迎すべきものです。

スタインバーグの演奏は、良い演奏ではあります。あと一歩の個性が欲しかったかな、という気がしました。





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May 12, 2017

⚫️東京国際音楽祭プレ大会の高校オーケストラ 2017.05.12.

東京国際音楽祭プレ大会という催しがGW中にビッグサイトで行われました。東京近辺の優れた若者(アマチュア)の演奏演技を披露するというもので、来年からは同時期に定例化する大会であるとのことです。招待されて行き、特に興味のある高校オケの演奏を聞いて来ました。

千葉県立千葉女子高校オーケストラ部。初日のオープニングを飾る舞台でした。フィンランディア、くるみ割り人形から、サムソンとデリラのバッカナールという名曲揃いの演奏です。このオーケストラはいついかなる時いかなる曲でも高度な技術と絶妙のバランスを聞かせてくれます。音楽は決して力ずくにならず、しっとりとした響と美しいハーモニーが特徴の優れた演奏でした。くるみ割りでは有名な「花のワルツ」ではなく私の好きな「パドゥドゥ」で締めくくってくれたのが嬉しかったです。

千葉県立幕張総合高校シンフォニックオーケストラ。やはり初日の演奏でした。120名を超えるらしい大所帯。最初に管楽器総動員でジャズのビッグバンド。続いて弦を入れてのエニグマ演奏曲の第9変奏、千と千尋の神隠し、吹奏楽の曲から3つのジャポニズム。このオーケストラは強靭で正確な表現が魅力で、その技術は大変高度なものです。オケ好きの私としては、もう少しヨーロッパの音楽が聴きたかったと思いました。

関東学院中学高校オーケストラ部は2日めの演奏でした。ここも大所帯で有名です。高3が引退したばかりの低学年だけで演奏したとのことですが、ベートーヴェンの「運命」交響曲を全曲聞かせてくれるなんて、夢のようです。情熱あふれる若人の良さが出た演奏で、すっかり感心させられました。このように技術をアピールするよりも「熱い」音楽を聞かせてくれる若者オーケストラが好きです。

この音楽祭ではありませんでしたが、これも最近、森村学園中学高校オーケストラ部の演奏で、チャイコフスキーの交響曲第1番「冬の日の幻想」を全曲聴きました。私の大好きな曲であり、非常に丁寧で考え抜かれた演奏にびっくりすると同時に、感動もしました。日本の若人の音楽が、従来の紋切り型の型にはまった演奏ではなく、ヨーロッパ風の人間性、ヒューマニティを豊かに出した演奏が増えて来たことに明るい未来を感じます。

音楽後進国としてアメリカ風の浅薄な演奏が多かった日本ですが、最近はやっと世界に誇れるような、音楽性豊かな演奏が増えて来たなと、東京のオーケストラ界や若人のオーケストラを聞いて嬉しいこの頃です。

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March 06, 2017

⚫️指揮者ミルガ・グラジニーテ・ティーラ 2017.03.06.

ミルガ・グラジニーテ=ティーラ。この名前を見てピンとくる人は、相当にオーケストラ界に通な方でしょう。かくいう私も数日前までまったく知らなかったのですから。

だいたいこのカタカナ表記にしても、正しいのかどうか分かりません。本名を表記通りに書きたいのですが、リトアニア出身とのことで英語のアルファベットで表せない文字が含まれています。まあそこをおして英語で書くとすると

Mirga Grazinyte–Tyla

だそうです。先述のようにリトアニア出身。1986年生まれ。リトアニアを出てグラーツ音楽大学で学び、ネスレ・ザルツブルグ指揮者コンクールなどで優勝。今はロサンジェルス・フィル(LAPO)の副指揮者、そしてザルツブルグ州立劇場(SLT)指揮者です。そう、指揮者の卵です。SLTでは既にボエームなどを指揮しているようです。

そして2つの驚くべきニュースがこの人を有名にしました。

1つめ。この人はうら若い女性指揮者であること。まあしかしこれは昨今珍しくなくなりました。日本でも欧米でも、女性指揮者は花盛りです。

2つめ。これがすごい。昨年2月、当時29歳の彼女は、バーミンガム市交響楽団(CBSO)の音楽監督に選ばれたこと。

そして私は個人的な理由で3つめをあげます。素晴らしくチャーミングな指揮者であること、です。

数日前に見た、音楽雑誌の彼女の指揮姿の写真は衝撃的でした。黒ジャケットに黒パンツ、両手を精一杯広げて第1バイオリンの方をにっこり微笑む姿は、これまで見たどの女性指揮者よりもすてきな笑顔でした。シモーネ・ヤングやマリン・オールソップのような実力派の指揮者は当然のことながら怖い顔をしていますし、昨年東フィルに現れたアヌ・タリは、チャーミングなというよりはセクシーな指揮者です。そんな先輩たちの大人の女性の魅力を押しのけて、グラジニーテ=ティーラは、田舎から出てきたひまわり娘が、まだ世の中と戦う前のはつらつとした少女のような素朴な美しさに満ち溢れています。

顔写真だけですっかりファンになってしまった私は、CDはないのか、動画はないのかとネットを探したら、わずかに動画がありました。LAPOのアンサンブルを指揮したと思しきアルルの女の一部の演奏、そしてCBSOの公式ホームページからは、昨年のイギリスのプロムスで指揮したチャイコフスキーの交響曲第4番のコーダの画像が出ています。これがまた、それほど巧くはないけれど的確で優雅な指揮で、見ていて引き込まれます。

あれ、プロムスって最近NHKが放映しなかったかな、と未見のTV録画したリストを探してみると、ありましたありました。2月27日放送の番組の中で、そのプロムスの交響曲第4番の全曲の映像が録画されていました。素晴らしい偶然。すぐに食い入るように見ました。

なんという自信に溢れた指揮。なんというチャーミングさ。今までの女性指揮者が男性に負けまいと頑張ってきたのが嘘のような、女性の魅力を満開させた指揮ぶりに、高齢の男性の私は目がくらくらしてしまいました。チャイ4は金管楽器とオーボエがしっかりしていれば、そこそこのオケなら満足できる演奏になるわけで、彼女の実力を測れるほどの曲ではありませんが、それでもこの大曲をニコニコと指揮する彼女に、ふだん難しいことを言う私もすっかり幻惑されてしまいました。

・・・ 衝撃的でした。新しい時代が来ました!



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March 01, 2017

⚫️久しぶりにショルティ/シカゴ響のマーラー、再び(CD) 2017.03.01.

ショルティ指揮シカゴ交響楽団(以下、CSO)の、マーラーの交響曲全集CDを中古で安く入手しました。実はショルティのマーラー(晩年のコンセルトヘボウやチューリヒなどのライヴ録音は除く)は、すべてLPレコードで持っていますし、今でもLPは再生できるので、わざわざ音の悪い?CDで買わなくても良かったのですが、スイッチ1つで再生できるCDの便利さにはかなわず、思わず買って少しづつ聞いています。

私は若い頃は筋金入りのショルティ・ファンでした。そもそも初めて自分のお小遣いで買ったクラシックのLPのひとつが、前年にレコード・アカデミー賞を受賞したばかりの「ツァラトゥストラはかく語りき」だったのですが、この曲はまったく知らなかったものの、ショルティとCSOの強烈無比な演奏にすっかり惚れ込んでしまい、おかげで50年近く続くクラシック音楽との付き合いが始まったとも言えるからです。

以後、つとめてショルティのLPを少しづつ集めることを始めました。当時はショルティ全盛期で、続々と新譜も発売されていましたし、膨大な旧譜も存在していましたから、コレクションを続けるにはうってつけの人でした。マーラーの交響曲もロンドン響、コンセルトヘボウ管との混合での全集がすでに発売されており、それらを1枚1枚買い揃えることは若い私には財政的には苦しいものの、大きな喜びをもたらしてくれることでした。

その頃ショルティのベートーヴェンの全集が完成し、数年後にはブラームスの全集もできました。チャイコフスキーの後期交響曲集、ハイドンのザロモンセット(オケはLPO)、完成までにすごく長い時間のかかったブルックナーの交響曲全集、そして完成が何より待たれたシカゴ響とのマーラー1、2、3、4、9番の録り直しがようやく終わって最新のデジタル録音でそれら(つまり今回入手した全集です)を聞けた時の喜びは何ものにも換えがたいものでした。

ショルティのシャープな感性と世界最高の合奏力と言われたCSOのコンビは、1970年代後半〜1980年代前半にかけて、カラヤン指揮ベルリン・フィルと並んで世界を二分する人気と実力のあるコンビでした。私も10数年間ほど、その魅力にぞっこん参っていました。

しかし得てしてこうしたものでしょうか、あまりにもたくさん長い間聞いていると、その欠点も見えてきたり、同時に自分の感性が深まってきて他のタイプの演奏が好きになったりしたので、ショルティの死後ここ20数年ほどは意識的に彼らの演奏をさけてきたものでした。完璧すぎて味わいに欠けるような気がしてきたからです。

自分も老境に入り、もしかしたら新しい見方聞き方ができるかもしれない、そう思いなおして、今年に入ってからショルティの演奏を少し聞き始めたところです。

さて、新しく入手し直したマーラー全集、いずれも演奏は知ったものばかりですが、とりあえず発売当時大人気だった8番を聞いてみました。当時私はこの8番の演奏にとても批判的でした。音がクリアで大きいばかりで、中身がないような気がしたからです。しかし今あらためて聞いてみると、第2部の静かな部分からゆっくりと階段を上がってクライマックスに達するような設計の見事さに感心させられます。それにウィーン少年合唱団の素晴らしい合唱に感謝。

続いてやはり批判的だった7番。これは金管と打楽器がやたらにうるさい演奏で辟易した覚えがありますが、今聞いてみると、そんなに刺激的ではなく、むしろ当時は物足りなく思ったこの曲のロマンチシズムが濃厚に出ていて、悪くない演奏だなあと感心しました。こちらも40年経って、耳に(解釈の受け入れに)変化があったせいでもありましょう。

私はロンドン響とのマーラー(1、2、3、9番)も嫌いではなく、特に2番と3番はロンドン響の方がひなびていて好きです。4番も古いコンセルトヘボウの演奏が好き。しかしこの全集をこれから聞いていくうちに、CSOとの新しい魅力に気がつくのではないかと、今から続きを聞くのが楽しみです。

ちなみに私の考えるショルティ指揮CSOの名盤は、マーラーでいえば6番と大地の歌(どちらも透明感の中にさやけくような情感がにじみ出て名演です)、他にはマタイ受難曲、メサイア、ドイツ・レクイエムといったドイツの基本的な合唱大作がなんとも素晴らしい。私はマタイはショルティを第一にオススメしています。ブルックナーで選ぶなら6番。ブラームス交響曲は4曲どれも最高。

どれか1枚を、と言われれば、世の中にまったく忘れられた存在ですが、メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」が最高に素晴らしいですね。知情意のバランスがここまできちんととれた美しい演奏は、彼らにしても一期一会ではなかったかと察します。

死後、四半世紀以上たちました。私のショルティへの好き嫌いも若い時の狂躁的から、おだやかな受容へと変化しつつあるようです。

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February 19, 2017

⚫️稀代の名演に ショスタコーヴィチ10番 パーヴォ指揮N響 2017.02.19.

過日のN響は、常任指揮者パーヴォ・ヤルヴィでシベリウスのバイオリン協奏曲(ソロは諏訪内晶子)と、ショスタコーヴィチの交響曲第10番という重厚なもの。

諏訪内のファンではないのに、よく聴く機会に恵まれます。昨年は確かチャイコフスキーの協奏曲をテミルカーノフ指揮サンクト・ペテルブルクフィルで聞きましたが、別項で書いたように非公開の演奏会だったせいかオケにやる気が全く無く汚い音で、諏訪内も苦労しているように感じました。

今日の諏訪内はそんなこともないはず、何と言っても指揮は今をときめくやる気100%のパーヴォですから。

もっとも別の意味で苦労したような形跡もあります。シベリウスの協奏曲はもともと諏訪内が得意としていた曲のはず。彼女は美音をたっぷりと歌うのが特徴だと私は思っていますが、パーヴォのある意味で前衛的な音楽づくりでは、そのようなたおやかさを生かしてくれない部分が多々あるように思いました。パーヴォは振り返ることなく前へ進むことが好きな感じですから。

それでもさすがは一流のプロです。そのような苦労をあまり見せもせず、パーヴォに従ってぐいぐいと進む彼女は、また別の凛々しさも感じて爽快です。彼らの苦労がもっとも生きた?のが快速なテンポで進んだ第2楽章の清冽で強靭な美しさではなかったでしょうか。

私は諏訪内のファンではないと書きました。確かに今日の演奏、シベリウスは若干の違和感あり、またアンコールのバッハは世評に反して私には軽すぎる演奏に思えました。日本人で言えば私の好きなバイオリニストはまずは五嶋みどり、それから庄司紗矢香です。あまりメジャーではないけれど佐藤俊介も素晴らしい。

しかしそんなことを言っても、やはり諏訪内は日本を代表するバイオリニストだな、と思います。その容姿の素晴らしさ(私は最近は演奏家としての容姿も大事だと思います)、私が望むほどではないけれどそこそこに深い音、いつも美音を聞かせてくれる1980年代風の様式(ここがもっとも好きです)。パーヴォとの感性の違いが気にはなったけれどでもそれは協奏曲なら当たり前のこと。改めて彼女に惚れ直した一夜でした。

後半のショスタコーヴィチは、何から書けばいいのか、ちょっと迷います。

  この曲は決して嫌いではありません。先日の井上の12番に若干シラけたことを考えれば、曲は12番などよりずっと優れているし、しかし私が好きな9番や15番のようなあからさまに軽妙なアイロニーというほども無く。結局力ずくの演奏が多いことがこの曲への私の評価を難しくしているのかもしれません。

書きそびれましたが、12月の都響の定期はヤクブ・フルシャ指揮のこの曲でした。フルシャは2年前にウィーン国立歌劇場へのデビューと重なった結果、都響をすっぽかした穴埋めとして、この大曲をひっさげて再登場し、華麗な演奏でお客を心酔させました。でもその時も私は、フルシャのはすごく精密で華麗な演奏なんだけれど、何だか心からの共感が得られないなあと思いました。それは後述する二面性がなかったからだと今では分かります。

さて、パーヴォ論です。パーヴォについてはこの稿でたくさん書いてきました。マーラーの巨人で衝撃的な演奏をしたこと。表情付けが繊細で新鮮なこと、音楽に円運動のような自然な緩急をつけて素晴らしいこと、ために筋肉質でありながら強靭なカンタービレが美しいこと、など。

しかしマイナス面も見えてきたことも示唆しました。パーヴォのマーラーの2、3、8番がいずれもやや期待外れに終わったこと、それは私が音楽に求める「祈り」が少なくて、肉感的なままのマーラーで終わったことなどが、若干の危惧を感じさせたからです。

まあまだ50代の指揮者に祈りなどを求めてはいけないのかもしれません。そのような危惧もありながらも、いま東京で活躍する指揮者の中ではとびきり優秀な人であることは間違いありません。

ショスタコーヴィチの第10交響曲に何を求めるべきなのでしょうか。祈りでしょうか。たぶん祈りは必要でしょう。スターリンの圧政への批判をうまくくるんで体制賛歌のように書いた曲に、祈りが不必要なはずはありません。

では内省的であればいいのでしょうか。いや、そういう訳でもないと思います。ショスタコーヴィチが不必要なぐらいに書いた音の洪水は、体制賛歌のためだけではなく、抑圧された人間性の爆発として必要だったはずですから。

ということは、演奏としては音の洪水と爆発を誘いながら、その真意は祈りにある、というような、如何にもショスタコーヴィチらしい二面性と皮肉を含んだ演奏こそ素敵だといえます。

長くなりました。まずはパーヴォの演奏は、とびっきり美しかったことをご報告します。あらゆる楽器が最上の響きを奏でました。

そして爆発のすごさ。私は長いことN響の会員でいながら、このようなすさまじい終楽章の爆発を聞いたことがありません。それは単に音量とかではなく、楽員全員が火の玉のように突進していくのをまざまざと見てしまったからです。ここまで本気になれるN響は初めて見ました。

もちろんそこに至るまでのパーヴォの周到な設計も生きています。いつものように様々な表情付けを行いながら、得意な円運動を強烈に聞かせ、管楽器のソロや、特にチェロとビオラのsoliでトスカニーニばりのすさまじいカンタービレを聞かせ(私はここがパーヴォの武器だと新しく感じました)、聴衆を唸らせました。

その結果、マーラーでは得られなかった充実感が押し寄せてきました。祈りの少ないマーラーとはうらはらに、強烈な音響が支配する中に祈りが見え隠れするような、理想的なショスタコーヴィチが現出したのです。

そして今日のN響は、迫力だけでなく、音の美しさも抜群でした。この曲をヨーロッパに持っていくそうですが、今日の演奏を凌駕できるのは、もはやベルリン・フィル、ウィーン・フィル、アムステルダムコンセルトヘボウの3大オケぐらいでしょう。どこをとっても充実しており、まったく文句のつけようがありませんでした。決してお世辞ではなく、長く日本のオケを聞いてきたものとしての実感です。

前にも書きましたが、今の在京オケは世界中でももっとも刺激的なオーケストラワールドになっています。その中でも、今日のパーヴォとN響のショスタコーヴィチ10番は、長らく語り続けられるような、そんな名演になったと思います。これを聞けたことは、私の生涯のまたひとつの嬉しい記念となったことをここに正直に書き留めておきます。

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February 01, 2017

⚫️小泉和裕のグラズノフ、ブルックナー 2017.02.01.

小泉和裕という指揮者は、正統派です。何を振らせても、ごくまっとうな音楽が出てきます。

私は40年ぐらい前、彼の演奏をテレビで見たことがありました。確かテレビの企画として、若い俊英の小泉に難曲のダフニスとクロエを指揮してもらう、といった内容だったと思います。

当時の記憶としては何だかひょろひょろして愛想笑いして、軽い指揮者だなあと思ったものでしたが、当時の若さでは軽いのもやむを得ないし、社会にこれから打って出る者としては愛想笑いも必要だったでしょう。

今の小泉を軽いと評する人は居ないでしょう。むしろ日本人指揮者としてはもっとも重厚な人に数えられるようになりました。朝比奈隆亡き後は、ベートーヴェンとブルックナーの正統的な解釈者として並ぶもののいない高みに達しています。

最近の都響の定期の後半(前半は遅刻で聞けませんでした)で、彼の指揮するグラズノフの交響曲第5番を聞きました。これが意外にも名演ですっかり感心してしまいました。

意外にもと書いたのは、小泉のレパートリーは決して広い方ではないと思う中で、私がいまひとつだなと思うのがR.シュトラウスだからです。小泉はもちろん正統的に聞かせてくれるのですが、残念ながら色彩感が乏しく、重厚ではあるけれど彼独特の匂いたつような高揚感が少ないのが残念で、おそらくスラヴの音楽もそうなのではないかと疑ったからです。

しかし意に反して、なかなかに華やかな終楽章を聞かせてくれました。がっちりとした構成の中に管打楽器の花をたくさんに咲かせてくれて、聞きごたえがありました。

小泉といえば忘れてはいけないのが、ブルックナーです。以前、都響との演奏で2番や3番を聞き、初期の曲ながらその確かな足取りと敬虔さに感心したものです。おそらく後期の作品もさぞや崇高なものになるだろうと思いつつ、まだ演奏を聴く機会に恵まれません。

都響ではなく大阪センチュリー交響楽団(現在の日本センチュリー交響楽団)と録音したブルックナーの4・5・6番のCDを入手しました。有名さからいえば4番か5番を聞きたくなるところですが、小泉に似合うのは6番かな、と思い6番から聞き始めました。

当たりです。小泉の魅力の1つに、おそらく師匠のカラヤンの直伝と思われる旋律線を長く美しく伸ばすという美点がありますが、ブルックナー6番という線の音楽の美しさをここまで嫋嫋と長く歌ってくれる人は、もはやこの世界に小泉一人だけだともいえましょう。それぐらいに長い長い美しさです。

それでいて、小泉の音楽は決して不条理な美しさにはならず、いつも凛とした清潔な美しさに包まれていることが大きな魅力です。

このような美しいCDを聴くと、小泉にはもっとたくさん録音をしてほしいものだと思います。生で聴くのもいい指揮者であり、CDでも良さがひきたつ、稀有な指揮者です。


・・・いま聴いているのは他に・・・
交響曲第4番、大地の歌(マーラー)
パウル・クレツキ指揮
フィルハーモニア管弦楽団
(1960年ごろのスタジオ録音)

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